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四六時中の刹那 (8)

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そいつは何のためらいもなく転がる私に向けて放尿した。嫌でも伝わってくるそいつの内臓の温かさが暴力的に私を慰めた。開放感溢れるような眼差しを向けてそいつは私を見下していた。ゆっくりと煙草に火をつけるとそいつはしゃがみこみ、私と視線を同じにしてニヤリと笑ったかと思うと、一瞬の躊躇いもなく私の首筋に煙草を押し付けた。私の頭は縮れて、纏わり付くような血の流れが血管を支配した。ふわりと空中に浮かんでいるようだった。嗚咽のようなため息が消え入るようにこぼれ、私はあろうことか泣いていた。


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濃度が濃い霧の中で僕らは迷いを楽しみ、惨めだった肩書を脱ぎ捨てた。そっちにはあの崖があった。母さんと父さんが弟を抱きしめて浮遊したあの崖が。落ちこぼれの僕と聡明なきみは名前が同じだという事だけで随分と特別な関係になってしまった。きみの眼は淀んだ大気の中で発する信号の光みたいな確かさがあった。僕はありったけの欲望をちらつかせながらきみに近付いたんだ。ぎらぎらの嫉妬心剥き出しの僕をきみは何の迷いもなく突き放して、吸い込んだ。そして味気ないガムみたいに吐き捨てたんだ。僕は粘りついてきみの靴底にしがみ付いた。弱さを見せたら人はおしまいなんだ、そうきみは静かに言った。ひとすじの涙が夢のように蝋燭の灯を反射させ揺れた。僕の涙はあの日沈んだまま戻って来なかった。父さんと母さんは何で僕を一緒には連れて行ってくれなかったの、そう言って祖母を困らせた。きみは見てくれのよさで随分と搾取されていた過去を呪っていた。
浮遊しようよ、
そう言って僕はきみの手を取ったんだ。きみのやせっぽっちの指がしっとりと僕の孤独だった指先に絡まる。あたたかいしずくが視界を遮った。
ああ僕にもまだ涙が残っていたんだな、そう考えながら僕らは飛んでいた。


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あした会えると言ったあの人は、三日前に死んだ。三角のおにぎりをもって行って、あの人の女に投げつけてやろうかと思ったんだけど、きっとあの女の人も同じような悲しみで沈んでいるのだと思うと私もそこまで悪魔じゃないからやめた。

水曜日、会ったら今度はおいしいプリンの食べれる喫茶店で先の話でもしようかと思っていた。でも消えたから仕方ない。息をするようにあっけなく死んだ。あの子は意地悪だけど僕の事が好きだった。それに甘えて随分と妻の醜態を漏らしてしまった。妻は三角のおにぎりをにぎれない。丸くて大きくて雪合戦の雪玉だ。その中には鮭フレークが申し訳程度入っていて微妙なんだ。でもそれがずっと妻の味であったし、先に行けてよかったなあと思う。

握り飯 愛のはざまで ゆれる鮭
      味気ないとは 彼方の心も


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デイジーのお腹は引っ付いていた。それくらい食べていなかった。アシュリーはそれをあざ笑ってポテトチップスを流し込んだ。あとからトイレに駆け込むつもりだ。ジェーソンはひょろひょろの腕を隠したくて大きなパーカーを真夏でも着ていた。絶望ハウス、それが私たちの付けたこの病院のあだ名だ。先生は私達をおっかないと思っているし、私が知っている限りではもう三人も死んだ。私は大丈夫だと思うし、ちょっと危ないのはデイジーだと思う。彼女きっともうすぐチューブになると思う。サラは泣いてばかりでめんどくさい。私はいつも一人のときに泣くのに、見せびらかす涙を流せるくらいなら死ねばいいのになんて強がってしまう。ごめんなさい、ぜんぶぜんぶ、ごめんなさい。


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無限の星空、ほら見てあの星が一番キラキラしてる。あの星は誰が食べるんだろう?お皿に乗っけて食べたら私大きくなってママをお姫様にするんだ。ママはいつも怒ってばかりだから、お姫様になったらきっと嬉しくて笑っちゃうね。


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右手の人差し指の爪が欠けたから私は苦しくなりました。それは唯一私があなたに触れた指先だったのです。あなたはもうきっとそんなどうでも良い事など忘れてしまっているでしょうが、あの日のときめきだけで私はここまで生きてこれたのですから特別です。大切な私の人差し指、失くしてしまわないように切断してみようかとも思いましたけど、もしも奇跡が起きてあなたにふたたび触れられる日が来た時の為にそれはやめておきました。いつかあなたを所有できる日が来たら私は喜んで全身を保存しましょう。


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窓のないその部屋で、換気口からそっと差し込んでくる光のシャワーが聖なる者の纏う後光のようで、私はその下に膝を抱え丸くなった。猫のようであった。聖なる光に守られる私はドブネズミであった。お天道様の血の気のない優しいあたたかさが私を沁みた。

主よ、世界の端っこをどうかお守りください。


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私が化け物になるとき母ちゃんは鬼婆になる。二人で喉が枯れるまで罵り合って、血が滲むまで引っ掻き合って、憎しみを込めた呪いのような言葉で私はますます逆上して、母ちゃんの絹のような細くて柔らかい髪の毛を束で掴んで引っ張った。声にならないうめきを吐いて母ちゃんは床に突進して、私の上に降ってきた。母ちゃんの丸みを帯びた右手が父ちゃんによく似たごわごわの私の髪の毛を容赦なく掴む。お互いてこでも動かないくらいがっしりとつかみ合って、私は少しだけ後悔した。負けたくないと思ったし、でもあまりにも痛いし動けないので、どうやって隙をついてここから優位に立てるかを考えようと、神経を脳みそに集中させるのだけど、それが出来ない。私は一瞬手をゆるめ母ちゃんの体から遠ざかった。でも母ちゃんの右手は相変わらず私の髪の毛を掴んだままで、私の首はゴキッと鳴った。
痛い、
私がそう言うと
死んじまえ、
と母ちゃんが言った。

死ぬもんか、お前の為なんかに死ぬもんか。

そう言いかけて私は母ちゃんの首に手を掛けた。


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