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緩やかな自殺

写真を本格的に撮り始めてから、10年以上あたため続けてきたテーマがある。Fragments of Suicides 「自殺の断片」。それぞれの自殺方法をモチーフに写真と共に物語や詩なんかを綴っている。さくらももこが骨折の三角巾や鼻血に憧れたように、私は幼い頃から死や精神病に甘美な憧れを抱いていた。そういうダークなものに惹かれ、そういう世界に浸る子供だった。死のうと本気で考えるような悲しみもあったし、死んだあとどうなるか見てみたい、という好奇心もあった。死ぬことも、死なないことも、私にとっては生きる事だった。生きていればその美しい悲しみと寂しさ、そして未知の世界を追求できる。死んでしまえばその後を知る事は出来るが、それでおしまいだ。おしまいにしてしまうには惜しい気がした。しかし突発的自殺未遂は三度ほどしてしまったし、今ここにいてこの物語を綴る事が出来ているのは、あの時死ななかったからだ。多くの自殺は突発的で事故的なものだろうと私は考える。それで死んでしまうか、生きながらえるか、だ。運良く生きてしまえば、それきり自殺をしない人もいるだろうし、何度も繰り返してしまう人もいる。追い詰められてどうしようもなく死を選んでしまう人は、本当は死にたくなかったのかもしれないし、死んでいなかったらいい未来が待っていたのかもしれない。きれいごとを言ってしまえば、それだけのものになってしまう。私はきれいごとなんて言いたくないし、結婚して、子供がいて、それなりに不自由のない暮らしをしているけれど、常に死への憧れや突然襲ってくる死ななくては、の発作はいまだにある。無理をして明るく楽しい未来!なんて馬鹿げた絵空事に夢見るよりも、私はダークで甘美な死や精神病の世界に浸っていたいし、苦悩や逆境は私にとって生きる原動力であり、創造性を奮い立たせる。プライベートではムスッとしてピリピリしていることの方が多いし、接客をして家に戻るとどっと疲れが押し寄せてくる。その時に美しくダークな世界の事を考えると、心が癒され一日の疲れが飛んで、新しいものを生み出そうという気になる。この世の中で生きていくためにあえて明るくふるまうなんて表面的だけでいいと思う。心の奥底でダークなものが好きでもそれは変ではないし、死に憧れ、血液に欲情したって、痛みに生きる意味を見出しても別にいいと思う。周りの人が心配するなら心配させておけばいいし、自分を変える必要はない。自分を変えたストレスで押しつぶされて創造力の欠片もない人間だけになるのはまっぴらだ。だけど本当に誰かに助けを求めてリストカットとかしている子がいるのなら、それは自分から声に出さないと周りは助けてはくれない。追い詰められて自殺を考えているのなら、声に出さないと周りは気付かない。そういう人間たちはもともと死に囚われていなかった人間だと思うし、救出されたら別の世界に行ってしまうんだと思う。私とは違う世界の人間だ。そういう人間たちこそ、助けてあげて欲しい。


殆どの自殺方法は突発的で、うまくいけば死んでしまう。しかし緩やかな自殺方法も存在する。摂食障害である。緩やかかつ確実なその自殺方法は、私の周りの二人の命を奪った。私も病的ではなかったけれど、吐いたりチューイングをしたり、とにかく痩せようとしていた時期はあった。本人はやめようとしているのだけれど、止められない場合が多い。気付いた時には取り返しのつかない場合になってしまっている事が殆どだ。チューイングを始めると、食べ物が呑み込めなくなってしまう。飲み込むことがいけない事のような気がして、飲み込めなくなってしまう。欲望に負けて胃袋にありったけ詰め込んだ後バスルームに駆け込んで吐き出した食べ物。ドキュメンタリーで歯がボロボロになった女性を見て、やめた。そこでやめれたら、まだ大丈夫だ。それでも、わかっていてもやめれない、それは病的だ。傍観者も見て見ぬふりして自殺に加担するのか、引きずってでも病院に連れていくか。でも手遅れになってしまうこともある。心臓に負担が来ていたりすることもある。
なぜ「摂食障害」をするのか?なぜ食べないのか?なぜ吐き出すのか?なぜ痩せたいのか?ただ単に達成感に憑りつかれているのかもしれない。目に見えて体重が減っていく喜び、入らなかった服が入る喜び、周りの人にちょっと痩せた?と言われた喜び。そんな変な達成感や、認められたという喜びが拍車をかけて別の次元へと誘う。しかし、もっと奥深い場所にあるのは母親との関係というが、それも基本的に母親に認められたい、という事かもしれない。母親の子宮という暖かいゆりかごの中で私たちは揺られながら、約十月を過ごす。その時の母親の行動が子供たちに影響するのだろうか?それとも生まれた後の母親の接し方が子供達に影響を与えるのだろうか?
私は小さい頃母に、本当は私が生まれる前にもう一人赤ちゃんが生まれるはずだったんだと言われ、その生まれてくるはずだった私の兄か姉になるはずだった魂を想い、いろいろ想像してみたりした。母の子宮のゆりかごに私よりも先に揺られていた存在は、世界に認められる前に消えてしまった。母に少しの傷を残して、その腕に抱きしめられることもなく名前も性別もないまま消えてしまった。私はその存在よりも長けているだろうか?その赤ちゃんが生まれていたら、私は生まれていなかったのかもしれない。私なんか存在しなかった方がよかった。そんな事を考えた。でも誰にも言わなかった。それは私とその認められなかった魂たちの秘密の考えで、決して誰にも知られてはいけないのだ。母は何事もなかったように物事を淡々と話すけれど、感情というものがあるのかしら?ヒステリックに怒鳴り散らすけれど、悲しみや喜び、絶望的なことや良心の呵責を彼女は感じているのかしら?子供ながらにそういう風に考えるほど、私の母はエイリアンや魔女のような存在だった。何かにつけて私は彼女を怒らせた。彼女と二人きりになる事が怖かったし、彼女に捨てられる事はもっと恐怖だった。母に捨てられるなら、自分で自分を捨ててしまえばいい、母に捨てられるよりも先に、自分からいなくなってしまえばいい。そんな事を考えながら大きくなった。私がお母さんを捨てればいいんだ。


私に捨てられた想像上の母親はやけに小さく、寂しそうだった。しかし現実の母親は私が去った後も人生を存分に楽しみ悩みなんてないように見える。私は最後まできっと母親に自分の胸のうちなんかを打ち明けられずに、どちらかが死んでしまうんだろうと思っている。悩みがあっても、どんなにお金が必要でも、突然会いたくなっても、私は甘えられない。躊躇してしまう。また怒らせてしまうかもしれない、呆れられてしまうかもしれない、馬鹿にされるかもしれない。それに私が知りたいことは、どんなに問い詰めても教えてもらえない。秘密なんて、隠し事なんて馬鹿らしいのに、しなくていいのに、私が聞きたがるとあえて隠そうとしているかのようにはぐらかす。いつも遠回りして馬鹿みたい。私はただ答えが欲しいだけなのに、あなたの言葉で聞きたいだけなのに。あなたは、何が怖いの?
妹と二人だけになった広い一軒家はある意味何も引きとめるものが無くて、私がお母さんを捨てる前にお母さんは私を捨てた。新しい恋人の家に転がり込んだ母は週末だけ戻ってきた。そして私にはお父さんのような人が出来て、お兄さんのような人もできた。嫌悪する妹に対し、私はそういった類の感情があらかじめ欠如しているせいか、誰とでもうまくやっていった。もちろん実の父は特別な存在だし、替えはきかないがその時すでに彼はこの世に存在していなかった。父の愛人とうまくやれたのも、父が愛す人なら私も愛せると思ったからだ。母の恋人とうまくやっていけたのは、ある意味エイリアンのようで偏屈な母とうまくやっていける人間がすごいと思ったし、その生活を覗いてみたかった。
ある程度その生活を覗き終わったら、私は死のうと思った。どこか誰も私のこと知らない外国で死んでしまおうと思っていた。残された人間には迷惑な話であろう。もしかしたら、捜索願すら出されないかもしれない。いつかふらりと戻ってくる、なんて風に考えられていたかもしれない。それほどに私は周りの人間と連絡を取らない。家族であってもだ。


その時私は死ななかったし、死ななかったからこうして生きて思いを綴っている。それがたとえ誰の心も揺り動かす事が出来なかったとしても、私は生きている。生きて呼吸をして、太陽の眩しさを時々嫌悪して、生きる事につらくなったり、漠然とした不安に苛まされることもある。だけど、色々な死に方を想像して、どうやって死のうと考えていたあの頃の私も一緒に成長してくれた。きれいごとなんて言うつもりはないけれど、あの時運よく心変わりしたせいなのかはわからないけれど、私はその死の願望さえも創造力に変えてしまった。自殺は決して甘美なものではないけれど、想像の中で甘美であってもいいと思うし、その痛みや不安定でとりとめのない病んだ世界に憧れてしまう人間はいるはずだ。死は決して美しくも、優しくもないかもしれないけれど、想像の中でなら夢にだってできる。決してタブーにしてはいけないと思うし、生きている誰もが平等にいつかは死ぬのだから、私たちはもっと死に対して寛容になるべきだと思う。戦争や事故で死ぬのは私も嫌だけれど、人間にはどうしようもなくなってしまった時に死ぬ権利があると思う。本当に生きているだけでもつらい人間は存在しているし、病気で、死ぬよりもつらい苦痛や薬による意識の混濁を味わっている人間だっている。もしその人が苦しみに耐えかねて死を選ぶなら、私は止める事は出来ない。その人の痛みなんてその人しかわからないのだし、悩んだ果てに行きついた答えが死だったのなら、つらいけれど尊重してあげなければならないと思う。
私の死への対しての好奇心は、まだこの世で生きて吸収していく事や、好奇心の方が大きすぎて、薄れたままだ。だけど死にたい、という漠然とした思いはまだ心の片隅にあって、常にゆらゆら正常と狂気を行ったり来たり。突発的にやってくる自殺願望は自分の意思に結構反していると思うので、ちょっと怖い。まだ死にたくないのに、私の中の狂気が私を殺してしまうとき、それは自殺でなくて殺人だと思う。私は誰も殺したくはない。
前置きが長くなりましたが、リリー・コリンズ主演の「To The Bone」面白かった。特に「Hi! I'm Lucas, like mucus.」って所が。キアヌ・リーブスがドクター役でいい味出してました。摂食障害で悩んでいる方や、当事者ではないけれど周りにそういう人がいる、っていう人にぜひ観て欲しい。摂食障害ほど緩やかで確実な自殺方法はないだろうし、気付いたら手遅れになっていたというケースは多々あるので、手遅れになる前に助けてと叫んでほしいし、手を差し伸べて欲しい。

https://youtu.be/705yRfs6Dbs




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