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りゅうちぇるへの想いを綴る乙武さんの記事を読み考えたこと。〜一歩踏み込んで話を聴こう〜

すごい記事を読んで心が動いたので、ご紹介したいと思う。



皆さん既にご存知であろう、乙武洋匡さんの記事だ。


乙武さんと先日旅立ったりゅうちぇるは以前から、プライベートでの交流もある友人だった。そんな乙武さんは、昨年のりゅうちぇるのカミングアウト↓

『“夫らしく生きなければいけない”“夫であることは正真正銘の男でないといけない”それを辛く感じてしまうようになった。
だからこれからぺこりんとは、夫と妻ではなく、人生のパートナーそして息子の親として人生を過ごして行くことにしました。』


を聴いたとき、考えてもみなかったことだったので、とても驚いたのだという。


私は、りゅうちぇるの“夫らしく生きなければいけない”この気持ち、わかるなあ…………と、つい思ってしまった。

わかるはずなんてないのに。
その人が考えていることや苦悩は、その人本人にしかわからないはずなのに。

私も「私は、子供たちの母なのだから」そして「夫の妻なのだから」「家庭を持つ主婦なのだから」こうあらねばならない!そんな考え方を、以前はしてしまっていたものだった。

アラフォーになった今となってはかなり図々しくなって、そんな自分自身の内側の声に対しても、
「はいはい。うっさいわ!やることやっとるがな!
知らんがな!!」自分で自分にそう言えるようになったけれど。




りゅうちぇるはきっと自分でも、自分の性自認が男の子なのかそれとも女の子なのか?ってことや、自分の恋愛対象が男性なのか、それとも女性なのか?ってことの自問自答を繰り返しながら、今までずっと生きて来たんじゃないかなあ?って思う。


だから、ぺこりんを愛したことも愛する女性と結婚をし結ばれて、かわいい息子くんを授かったことも、彼の中ではきっと全部が誠実な選択で、ちゃんと真実だった。


でも月日が経つにつれ、婚姻関係という縛りや「夫」である自分に苦しさを感じるようになった。


きっとりゅうちぇるは私と同じように、自分自身の感情の機微にもとても敏感で、自分の中に湧いて来てしまった感情を無視したまま生きていると、苦しくなってしまう、無気力になってしまう、心身に不調をきたしてしまう、そんな心の持ち主だったんじゃないかな?って私は想像をしている。

これはあくまでも私の勝手な想像だけど。


だから、自分は注目を浴びる立場であって、カミングアウトをしたらきっと大変なことになるだろうってわかってはいたけど自分の心に、素直に生きるしかなかった。正常に、元気に生きるために。


それはそれはきっと怖かっただろうし、孤独も感じただろうし………カミングアウトをすることは、相当の覚悟が必要だったのだろうと思う。


でもりゅうちぇるは、本当の自分で生きようとした。自分の心に誠実に生きようとした。

ただそれだけだったんじゃないだろうか?


りゅうちぇるのカミングアウトを聴いて、りゅうちぇるとは友人関係だった乙武さんは、「ずっと言えなかった」「ずっと自分を偽らなくてはいけなかった」状態を作り出してしまったのは、自分やりゅうちぇるの周りの人間たちがそうさせてしまっていたってこともあるんじゃないか………?と、ご自身を責めた。


(乙武さん)

当のりゅうちぇるには、どんな言葉をかけていいかわからなかった。あれこれ考えてはみたものの、さして気の利いた言葉も思い浮かばなかった。
だから、短く、ストレートに、これだけ送った。

「とにかく応援してるし、とにかく大好き!!」

その日のうちに返事が来た。私信の公開は本来であればルール違反だが、りゅうちぇる、ごめん、今回だけどうしても公開させてくれ。↓

乙武さん「友達なんかじゃなかった。」の記事より

(りゅうちぇる)

「暖かいお言葉、有難う御座います。
Twitterも拝見させてもらいました。
感謝の気持ちで一杯です。
覚悟した上なのに
正直、今少ししんどくなってしまって
怖くてたまらないですが
前を向くしかないと思ってます。
早く元気になって
会えたら嬉しいです。
メッセージ、そして発信も、、本当に有難う御座いました」

りゅうちぇるのメッセージ

(乙武さん)

「正直、今少ししんどくなってしまって」
「怖くてたまらない」

いま、こうした悲しい結末を迎えた上でこの文面を目にすると、「しんどい」「怖くてたまらない」といった言葉が浮き出て見える。それはまるで、りゅうちぇるが発していたSOSのサインにも見える。

なのに、私は、何を返したのか。
「絶対にだいじょうぶだよ。りゅうちぇるはりゅうちぇる。本当に大好き。無理せず、ゆっくりね。」

なんだよ、この薄っぺらい返事は。全然「だいじょうぶ」なんかじゃなかったじゃねえかよ。おまえ、適当にカッコだけつけて終わらせようとしてただろ。「味方だよ」ってポーズだけ取って、どこかで満足してたんだろ。


(乙武さん続き)

なんで「会おう」って言わなかったんだろう。
なんで「電話しよう」って言わなかったんだろう。
友達じゃなかったのかよ。

友達なら、なんでもっと踏み込んで、あいつの怖さを抱きしめてやらなかったんだよ。

反吐が出る。自分の軽薄さに、本当に反吐が出る。

大切な友人だった。大切な仲間だったなずなのに、私はそれに相応しい行動を取ることができなかった。

友達なんかじゃ、なかった。


こんなにも後悔そして悔しさ、自分自身に対する怒りのエネルギーが乗った文章を、私は読んだことがないと思った。

衝撃を受け、何度も読み返した。

そして、たくさんの気付きをいただいた。


じゃあこれからの私には、一体何が出来るだろう?
この乙武さんが抱く悔しさの記事を読んで私が感じたこの想いを、消してしまいたくないと思った。

だから自分も記事に書いて残そうと思った。



「私は心の露出狂です」

私は、自分で自分のことをそう言っている。

ずっと以前の私には、心に浮かんだ言葉や相手の方に対する疑問点が、たとえそれがどちらかというとセンシティブな内容だったのだとしても、まるまんま口をついて、ぽんぽんと出て来てしまうような所があった。

「お節介母ちゃん」って感じだろうか。


でもあるとき、会話をしていた近しい人物から
『これ以上は踏み込んで来て欲しくない』そんな
“心の壁”的な空気感を感じた瞬間があって、それ以来近しい間柄の人に対しても、以前に比べれば、グイグイと聴き出そうとする姿勢を、きもち控えているようなところがあった。


でも私が今までの人生経験を活かしてこれからやってみよう!と考えていることは、傾聴や人生相談を私自身が引き受ける、ということなのである。


きっとそうして私の元へ来てくださった方がいたのだとしたら、『話をただあなたに聴いてほしい』『自分では言葉にしきれないような思いを抱えていて、それを誰かに話したい』きっとそのような方たちなんじゃないかなあ?って想像をする。


だからそうして私を頼って来てくださる方がいたとしたのならそんなときは、ひるまずに一歩踏み込んでお話を聴こう!聴いちゃおう!

そう思った。

ただ、お相手の方が『話したくない』そう言ったとしたのなら、無理に聴くことはしない。
その辺りの、目には見えないようなニュアンスや感覚を掴んで行くには、やはり経験を積み重ねるしかないのだろう。


私は、乙武さんの記事を読ませていただいていて、そんなことを考えた。

たとえ、『お節介な人だなあ………』
『なんだかめっちゃグイグイ来る人やん……笑』


と思われて嫌われてしまったのだとしても、その私のお節介パワーで、ひょっとしたら誰かを助ける事が出来るかもしれないのだから。


だから傾聴するってことを、これからは仕事にも繋げて行こうとしているような私は、嫌われてしまうことを恐れたりせずに、喜んでこれからもお節介をして行きましょう!と思った。



乙武さん、りゅうちぇるが語っていたことや、乙武さんの想いを記事にしてくださって、ありがとうございました。


ここまで読んでくださってありがとうございました。





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