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思考は謎から目をそらし、問題を忘れる――ビリー・アイリッシュの投稿から考える

(※この記事は2020/06/09に公開されたものを再編集しています。)

ビリー・アイリッシュから考える

 2020年5月30日、アーティストのビリー・アイリッシュがInstagramに投稿した画像が話題を呼んだ。今回は彼女の言葉から、考えを進めたい。この投稿は、直接にはジョージ・フロイドという黒人男性が白人警官から8分以上も首を圧迫された結果死亡した事件を受けて出された(投稿の末尾には、#justiceforgeorgefloyd とある)。フロイドが繰り返した、「息ができない(“I can’t breathe.”)」はプロテスターの合言葉にもなった。

 ビリーの投稿は、Black Lives Matter運動と呼ばれる運動に関連している。国内で知られた著面人としては、星野源や宇多田ヒカルが、ジョージ・フロイドの死やBlack Lives Matter運動に直接的な言及していたし、ナイキやYouTube、Netflixといったグローバル企業が直ちに連帯の意思を提示していたから、5月から6月にかけて耳にした人は多いかもしれない。

Black Lives Matterと暴力の可視化

 黒人の受けている現実的な暴力や差別を可視化する運動として、#BlackLivesMatter は始まった。このハッシュタグには、スマートフォンなどで撮影された映像や写真、実体験を記したテクストがそこには溢れている。警官や隣人から肉体的・精神的な危害をカジュアルに加えられている現実が、否応なしに理解される。

 一つ断っておきたいのは、今回世界的に注目をさらったBlack Lives Matter運動が、2020年突然に現れたわけではないということだ。アリシア・ガーザが、アフリカ系アメリカ人の殺害者が無罪判決を受けたこと(トレイボン・マーティン射殺事件)に対する反応として、2013年夏に使ったのが#BlackLivesMatter というハッシュタグの初出だと言われており、それ以来、暴力を可視化しデモや抗議を行う流れは、誰に導かれるわけでもなく脱中心的なままに拡がり、今も続いている。

 そして今回全世界に拡がったBlack Lives Matterの輪は、アメリカにおいてどれほど深く黒人差別の問題が残っており抜きがたいものであるかということを印象づけるだけでなく、各国において類似の差別が抜きがたく存在しており、ある人びとは心配なく通りを歩くことができるのに別の人たちは通りで公権力や隣人から差別的な偏見と暴力を向けられることに慣れざるを得ず、現実的な恐れを抱きながら生活しているという事実を思い出させた。 人種差別については、日本国内も当然例外ではない。入管での死亡事件や外国人技能実習生の労働環境に関わる問題があるし、最近も(何もしていないのに)クルド人男性が警官から不当な暴力を受けた事件があった(*)。

あと何本の動画が必要なのだろう?

 今年2月23日、黒人男性がジョギング中に射殺された。射殺した親子はありもしない供述で罪を逃れ(警察は裏取りもしなかった)、殺害の瞬間をおさめた動画が5月に出回って初めて、彼らは逮捕された。加害者は白人であり、被害者は25歳の黒人アーマード・アーベリーである。彼が武器を持っていなかったことは重要ではない。

 問題は、唐突な危害が街中にあるかもしれず、警察も司法といった公権力もまた差別に加担しうるので、白人のように特権的な位置にいない人たちは、安心して街を歩くことすら難しい現実があるということだ。エリック・ガーナーは、警察官が逮捕にあたって行った締め技で窒息死した。2014年のことだ。彼が最後に言ったのは、「息ができない(“I can’t breathe.”)」という言葉だった。

 「フィランド・カスティール、ウォルター・スコット、アタティアナ・ジェファーソン、ショーン・リード──。映像に記録された黒人の不当な殺害を数え上げていけば、きりがない」。ジェイソン・パーハムは、アーベリー射殺事件に関連して言う。「どれだけ死ねば十分なのかと思う。銃規制が強化され、警察当局の意識改革が進み、黒人を絶滅させなくても白人は生きていけるのだということが理解されるまでに、あと何本の動画が必要なのだろう」。

黒人の命が大事? 全ての命が大事?

 今回コラムで私が個人的に達成すべきだと考えていたことの一つは、Black Lives Matter運動についてなにかを書き、それを知らせるということだった。その上で、今回は、ビリー・アイリッシュが発表した文章に、不確実性と対峙する能力(ネガティヴ・ケイパビリティへ)に通じる手がかりを読み取ることしたい。

 ジョージ・フロイドの死に接して、「黒人差別っていうけど、黒人だけ取り沙汰されるのおかしくない?」「白人の命だって大事だよね?」「私だって生活苦しいんだけど」「傷つくことなら自分にだってある」といったレスポンスがソーシャルメディアには溢れた。

 こうした反応に、彼女は隠さずに怒りをぶつけている。文章の冒頭にあるのは、Black Lives Matterという掛け声に、All Lives Matterの声を重ね、運動の意図をぼやかしたり、黒人差別の問題を些事であるかのように扱ったりしている人たちへの怒りだ。以下、抜粋して拙訳を示すことにしたい。

(一応補足しておくが、そうした反応を見せる人にどんな意図があろうが大事ではない。そもそも、実質的に差別や危害を些事化していることが問題にされているからだ。意図などは端から問題にされていない。)

Instagramの投稿からの翻訳(一部)

もしあと一人でも白人が『すべての命が大事(All Lives Matter)』とか言ってるのを聞いたら、頭おかしくなると思うわ、くそったれが。マジで口閉じといてくれん???誰もお前の命が大事じゃないなんて言ってないし、誰もお前の生活が大変じゃないなんて言ってない。

ていうか、誰一人としてお前の話なんかしてないし。お前らさ、何でも自分の話題だと思い込んでばっかり。これ、お前の話じゃないから。何でも自分の話題に持っていくのやめて。お前らが助けを必要としてるわけじゃないし、危険にさらされてるわけでもない。

(中略)

ある友達が腕に怪我したら、みんなの腕が大事(all arms matter)だから、友達全員に絆創膏が配られるまで待つ? 違うよね。その友達を助けようとするはず。だって、その友達は痛がっていて助けを必要としていて、その友達こそが血を流してるんだから!

人は不安より、馬鹿げた説明を好む

 私たちは何事にも説明をつけたがる。不安定な状態、わからない状態、自分が動揺している状態を好まない。それよりは不合理や不可解でも一応の説明をつけてわかった気になりたがる。

 責められているように感じるときは、弁解したくなるし、責めてきたと感じさせた相手を攻撃したくなる。自分じゃなくて相手が悪いし、そもそも問題に溢れているのに特定のことだけ叫ぶのは利権が絡んでいるんじゃないかと想像したくなる。そんな風に考えを巡らせることで、事態や問題を掌握したつもりになり、問題を素通りしてよい資格を得た気になれる。こうして私たちは自分を変えないでいられるし、安全圏に居続けられる。

 何らかのきっかけで「不可解」「わからなさ」「動揺」に心が支配されるとき、私たちは、自分のわかる手頃な範囲に話題を持ち込むことで、それを大したことでないかのように扱うことがある。過剰な一般化をすることで、新しい事態や抗議の声を圧し留めて、わかったような口をきくことがある。ビリーが見抜いているのは、そうした私たちの悪癖である。 私たちは説明がつけられるなら、安易でも不合理でもこだわらない。不安や不確実性を抱えているよりは、いっそ馬鹿げた説明に飛びつくことを好むのだ。

些事化して問題を問題にしない習慣

 「でもこいつ逮捕されるようなことをしたんだろう」「俺も大変だけど我慢しているのだから、自分の利害ばかりこいつは考えて声に出しているに違いない」「全部の命が大事なのに特定のことだけ問題にするのは欺瞞」「誰かが言ってたけど外国の扇動なんだろ」「話はわかるけど、言い方がなぁ」「そんなんじゃ誰も聞いてくれないでしょ」「むしろこの言い方で偏見持ったわ」――。

 いずれの言葉も、目前にある差別を放置してよい理由にはなっていないが、その問題から目をそらすことを促している点で一致している。こうして無関心は肯定される。私たちは、容易く目をそらす。問題を捨て置くことで、その問題がもたらす動揺や不安を忘れることができるのだ。

 このコラムでは、思考は結論を急ぐ、と繰り返してきた。しかし、私たちの思考は、必ず「結論らしい結論」を出すとも限らない。目をそらし、忘れるという方法をとることもある。Black Lives Matterが改めてあぶりだしたのは、過剰な一般化や邪推、自分自身と短絡することなどを通じて、私たちが問題に対峙するというより、問題を捨て置くことを好むということだ。あるいは、捨て置かない人物を批判し、馬鹿にしさえする。そして忘れる。自分自身の不満や過去の経験と安易に結びつけて理解し、問題を些事化することによって、問題を問題ではないかのようにみなす心の習慣を持つのは、私たち一人一人だ。

 ネガティヴ・ケイパビリティは、問題や不可解を前にして安易な説明をつけない力、不知を自覚しながら手頃な説明を拒む現実に対峙する力のことだった。だとすれば、過剰な一般化や自己との短絡によって謎を無化するのではなく、そこに見つめるべき謎があると認め、立ち尽くすことから始めるべきなのだろう。そしてそれはとても困難な仕事でもあるということを、2020年の私たちは目の当たりにし続けている。

(*)「傍観者でいられる“特権”をめぐって荻上チキが考え続けていること」 ▼2020年6月2日(火)放送分(TBSラジオ「荻上チキ・Session-22」)
https://www.tbsradio.jp/488431


以下に、参照した記事を挙げる。

ビリー・アイリッシュの投稿

ビリー・アイリッシュが長文コメントで人種差別に抗議「白人というだけで優遇される」【全訳】

ジェイソン・パーハム「ジョージ・フロイドの暴行死が浮き彫りにした、「黒人の地位向上」という幻想」

ビジャン・スティーブン「ブラックパワーと公権力:ソーシャルメディアによる新たな闘争」

ジェイソン・パーハム「ジョギング中の黒人男性が射殺された事件の真相と、「最期の瞬間」の動画がネットで拡散したことの意味」

アリエル・パルデス「SNSに溢れる「黒塗りの画像」は、過去の苦闘の記録を“塗りつぶす”ことになりかねない」

「20秒以上の沈黙 カナダのトルドー首相、トランプ氏について意見求められ」BBC, 6月3日


2020/06/09

著者紹介

谷川 嘉浩
博士(人間・環境学)。1990年生まれ、京都市在住の哲学者。
京都大学大学院人文学連携研究員、京都市立芸術大学特任講師などを経て、現在、京都市立芸術大学デザイン科講師、近畿大学非常勤講師など。 著作に、『スマホ時代の哲学:失われた孤独をめぐる冒険』(Discover 21)、『鶴見俊輔の言葉と倫理:想像力、大衆文化、プラグマティズム』(人文書院)、『信仰と想像力の哲学:ジョン・デューイとアメリカ哲学の系譜』(勁草書房)、『ネガティヴ・ケイパビリティで生きる』(さくら舎)など多数。

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