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言葉と認識と世界と【だらだら日記②】

今日は日記を読み返していた。
とある秋頃の日記で目が留まった。

抜粋してみる。

石丸市長の動画をずっと見ていた

カフェで勉強しに行った

市長の動画からは人間の都合の良さ・防衛本能・集団形成・コントロールの欲求(したい・されたくない)について再確認できたと思う。

そして認識する世界が違うと議論が噛み合わないことも(正確にはそうと認識したい世界)、客観的に物事を判断できないことも分かった。

結局、歪んでしまう認知をどう活用するか?
そしてどう認知をしてもらうか?が重要なのが現代なのか

歪んでしまうのは?
生存に役立つからか?
テクノロジーが発達した現代で歪ませた認知は必要か?

むしろ認知の歪みが意味不明な都合を作り上げて
誰のためにもならない状況を作っていないか?

(略)

全員が歪んでいることを認識すること
全員が自分に都合よく解釈してしまうと注意すること
その上で歪みを掛け合わせてみること

この辺が重要なのか

考えろ

遊びと競争・余白と余暇・メタ認知と幼児性・多面的な自己・気付き・無意識と非言語領域・身体と想いの残存・経験の唯一無二性・柔軟性(吸収力)と情報の断片として処理する力・知の構造化・知的生産の共通性・不安と防衛本能・繋がり欲求とコミュニティと群れ・現状維持・確証バイアス・ネガティビティバイアス・ネガティブをも愛する、愛と承認・実現とコントロール欲・運と縁・認知の錯覚とコミュニケーション・「空」と宇宙・イタさと「外れる怖さ・同じでありたい」欲・睡眠と整理

日記

自分用に残していた日記なのに、正直自分ですら「何言ってるか分からん」って印象です。

この日は各所で取り上げられている安芸高田市の市議会の動画をずっと見ていたっぽいです。そこから人間の認知能力の限界・「愚かさ」について、再度考えてみたのかなと。

なぜ、石丸市長と清志会の”対立”と評される構造が生じているのか?
なぜ、清志会の人々は「認知が歪んでしまう」のか?

(そう見えてしまう視聴者側の認知が歪んでいるのかもしれませんが…大多数の人が彼らを”老害”的なポジションに捉えてしまう、そして彼らが一般的に愚かな老害なムーブとされる動きをしてしまうのはなぜか?)

すべて、人間という生物の優位でありたい願望と、何かを守りたい本能と、徒党を組むという習性で説明できる歪みなのかなと。

本能的に、私たちはどこまでも歪んだレンズを通して世界を知覚・認識し、それが「在る」ものだと思い込んでいる以上、その歪みをどう理解し活かすかが重要になるのかなあという当たり前すぎる「感想」が出てきました。

むしろそれを活かすことが出来れば、世の中見えない部分からもっと豊かに出来るんじゃないか、なんて思ったりします。

そこからお気持ち表明的に、自分が考えたいこととしてのキーワードが列挙されていて、笑ってしまうくらい意味不明で何言っているか分からないものの「人間とは何か?どう生きるのが”善い”か?持続可能な世界になるには?豊かな社会とは?」といった自分なりに興味のあることに繋がっていることは分かります。

今の自分の視点で整理してみると

◎ 個人について
【「個人」というアイデンティティについて】
・メタ認知と幼児性
・多面的な自己
・気付き

【情報処理・認知について】
・柔軟性(吸収力)と情報の断片としての処理
・睡眠と整理
・認知の錯覚とコミュニケーション

【記憶と経験・無意識について】
・無意識と非言語領域
・身体と想いの残存
・経験の唯一無二性

【欲求について】
・実現とコントロール欲
・イタさと「外れる怖さ・同じでありたい」欲

【負の感情とその派生】
・不安と防衛本能
・繋がり欲求とコミュニティと群れ
・現状維持・確証バイアス
・ネガティビティバイアス
・ネガティブをも愛する、愛と承認

◎ 外の世界について
【時間の概念】
・余白と余暇

【競争の概念】
・遊びと競争

【過去の知の蓄積系】
・知の構造化・知的生産の共通性

【その他】
・運と縁
・「空」と宇宙

日記のキーワード列挙

こういう感じになるのかなと。

それぞれ、時間かけて書き記していきたいなと、日記を振り返って思いました。春休み、少しずつやっていきます。

また、日記の続きにはこんなことが書いてありました。

重要な学びの再確認をした
チームラボ代表の哲学を見た

言葉を紡ぐと複雑な現実を切り取ってしまう
言葉が認識を作るのだから
だから言葉はあまり好きではないと

そうでない複雑な世界を複雑な構造のまま、ありのまま切り取る行為がアートなのか?

アートとは何か?
それは表現するものなのか?在るものなのか?

なぜ人は表現する?
表現するように見える?

なぜ人は踊る?踊っている?踊らされている?
なぜ人は遊ぶ?遊んでいる?遊ばれている?遊ばされている?

身体で世界を認識する
感情で世界を認識する
言葉以外の認知の方法がある

「レンズ」は身体を切り落とす

テレビや映画館とは違う認知革命を
フォーカスの幅が狭いと催眠状態に近づいてしまう
そうではない認知を

言葉による抽象化は捨象の側面もあるわけで
僕が使う言葉も、自分の感情や世界の認識をうまく表現できているわけではない、どこか捨てているものがある(別の解釈の可能性を捨てているのかもしれない)

同じ言葉を使っていても、各々で認識が違うこともある
各々がその言葉をどのような世界を切り取り表現するときに使うかが違うから

見たいものしか見えない
認識したものが見えて現実になっている
現実が見えているわけではない

言葉の重要性・難しさ・限界を見た

これもまた日記

ポエミーな文章ですね。

どうやら「映えスポット」で有名なチームラボの哲学について勉強したようです。

そこから感じたことをツラツラと書いているんですが、結局何が言いたいのかっていうと、「言葉って難しいよね」ってことです。そして言葉という装置を通じて、世界を認識したり感じたりしている私たちだけど、それ以外の見方や感じ方もあるよね、という話です。

その中に、踊りとか遊びみたいなものも入ってくるんだろうなと。表現していると思っているが、それはただあるだけとも言えるし、言葉とは別の世界の捉え方として捉えることもできる。能動的に何かをしているという風にも、受動的に世界を受け取っているという風にも考えられるってことです。

やっぱり、言葉とか、認識とかって面白いし難しいなと再確認できました。

2024/01/05

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