今日は日記を読み返していた。
とある秋頃の日記で目が留まった。
抜粋してみる。
自分用に残していた日記なのに、正直自分ですら「何言ってるか分からん」って印象です。
この日は各所で取り上げられている安芸高田市の市議会の動画をずっと見ていたっぽいです。そこから人間の認知能力の限界・「愚かさ」について、再度考えてみたのかなと。
なぜ、石丸市長と清志会の”対立”と評される構造が生じているのか?
なぜ、清志会の人々は「認知が歪んでしまう」のか?
(そう見えてしまう視聴者側の認知が歪んでいるのかもしれませんが…大多数の人が彼らを”老害”的なポジションに捉えてしまう、そして彼らが一般的に愚かな老害なムーブとされる動きをしてしまうのはなぜか?)
すべて、人間という生物の優位でありたい願望と、何かを守りたい本能と、徒党を組むという習性で説明できる歪みなのかなと。
本能的に、私たちはどこまでも歪んだレンズを通して世界を知覚・認識し、それが「在る」ものだと思い込んでいる以上、その歪みをどう理解し活かすかが重要になるのかなあという当たり前すぎる「感想」が出てきました。
むしろそれを活かすことが出来れば、世の中見えない部分からもっと豊かに出来るんじゃないか、なんて思ったりします。
そこからお気持ち表明的に、自分が考えたいこととしてのキーワードが列挙されていて、笑ってしまうくらい意味不明で何言っているか分からないものの「人間とは何か?どう生きるのが”善い”か?持続可能な世界になるには?豊かな社会とは?」といった自分なりに興味のあることに繋がっていることは分かります。
今の自分の視点で整理してみると
こういう感じになるのかなと。
それぞれ、時間かけて書き記していきたいなと、日記を振り返って思いました。春休み、少しずつやっていきます。
また、日記の続きにはこんなことが書いてありました。
ポエミーな文章ですね。
どうやら「映えスポット」で有名なチームラボの哲学について勉強したようです。
そこから感じたことをツラツラと書いているんですが、結局何が言いたいのかっていうと、「言葉って難しいよね」ってことです。そして言葉という装置を通じて、世界を認識したり感じたりしている私たちだけど、それ以外の見方や感じ方もあるよね、という話です。
その中に、踊りとか遊びみたいなものも入ってくるんだろうなと。表現していると思っているが、それはただあるだけとも言えるし、言葉とは別の世界の捉え方として捉えることもできる。能動的に何かをしているという風にも、受動的に世界を受け取っているという風にも考えられるってことです。
やっぱり、言葉とか、認識とかって面白いし難しいなと再確認できました。
2024/01/05