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室町・江戸時代に活躍した口中科家系:歯科医療の日本史⑤

 鎌倉時代末期に花園天皇から「歯においては名医」と称賛された丹波冬康ですが、その孫、丹波兼康を初代として歯科専門の医家系が次々と生まれてきます。(小野堅太郎)

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口科家系の始祖:丹波兼康

 丹波兼康の存命期間は明らかではありません。冬康の孫なので、活躍時期は50~60年ほど後でしょうから、1370年あたりかと思います。南北朝時代のど真ん中です。典薬頭として勤務しました。

 丹波兼康に始まる歯科専門家系について一番詳しい内容を含む書籍は「歯科医学史」(川上為次郎著、1931年、金原商店)かと思います(家系図まで記載されている)。Amazonでも入手困難ですが、九州歯科大学附属図書館にあります。古い本ですが読みやすく、歯科医学史の集大成です。ただ、年号が西暦ではなく「皇紀」なので、西暦と勘違いすると「え、未来?」となっちゃうので注意が必要です。

 室町時代から「歯科」は、「口科」もしくは「口中科」との呼び名で定着していきます。他の医学はまとめて「本道」として区別しています。丹波兼康を初代として歯科専門家系が次々生まれるのですが、その家系に代々伝わる歯科専門書があります。丹波兼康の著となっていますが、写本され、後代が継ぎ足していったものと思われます。毎回ありがたい「京都大学貴重資料デジタルアーカイブ」でそれらの書籍が閲覧でき、いずれも「二次利用自由」となっています。2つ目の「口科叢書」は数種の合本となっています。内容紹介は次の記事で行います。今回は歯科家系についてまとめます。

親康氏

 丹波兼康の長男系統に親康がいます(兼康から5代目)。1520年、典薬寮を辞めて、民間の口科医師として働きます。上の「口科叢書」の3番目にある「口中秘伝之書」は親康の著作のようです。親康の長男は典薬頭に戻りますが、弟の光康は民間に残りました。その時、正式に父の名を姓として「親康」家が始まります。1596年、光康から7代目の親康光重は朝廷(禁中)に勤務します。光康の曽孫にあたるの親康光道(通称「喜庵」)は後桃園天皇の歯痛治療に診察し、薬を処方しています(1779年)。

錦小路氏

 丹波兼康の次男系統は長男系統と同じく典薬寮務めです。この家系は親康系(長男一族)との差別化のため「兼康」姓を名乗ることがあったようです。長男と次男の家系でライバル関係にあったのでしょう。1584年、兼康から8代目の丹波頼元は典薬頭になり、「錦小路」家を正式に名乗るようになります。丹波頼元改め「錦小路頼元」ですが、典薬頭を務め、口中医として働きます。

金保(かねやす)氏

 さて、錦小路家の始祖となった頼元ですが、玄泰と名付けた養子がいました。玄泰は京都で口科医師をして「兼康」姓を名乗っていたようです。後に同じ読みの「金保」を名乗るようになり、1613年に江戸幕府に呼ばれて徳川秀忠と謁見しています。金保玄泰から5代目の元孝は「口中科でなく、医学(本道)そのものをやりたい」と言い出します。時の将軍は徳川吉宗ですが、幕府の御番医師に取り上げられます。その後、「多紀」氏に改め、1765年に江戸幕府の医学校「済寿館」を設立します。よって、口中医としての流れは、多紀氏になってからは消えていきます。

兼康氏

 丹波兼康の系統中で、民間で口中医を続けていた子孫たちから兼康弘順が現れます。1699年、兼康弘順は江戸幕府の医師になり、代々口中医として幕府に勤務します。兼康系統の中で最も江戸幕府の最大口中医派閥(?)になり、後世に書物を残すことになります。

小森氏

 錦小路家となって頼元から6代目の頼季には別に頼庸という養子がいました。頼庸は優秀で「殿上人」の位まで出世したことから、頼季は「錦小路」氏を頼庸に譲って分家します。これに合わせて頼季は住んでいる越前国小森保にちなんで中御門天皇より「小森」姓をもらいます(1700年代初頭と思われる)。つまり、丹波兼康の次男系統は錦小路氏と小森氏の2つに分かれ、朝廷の口中医家系となります(錦小路氏は次第に医業からは離れたようです)。

その他の歯科専門家系

 以上が、丹波兼康に始まる歯科専門家系です。その他の江戸幕府の口中医家系として、松本氏、本康氏、安藤氏、本賀氏、堀本氏、金元氏、佐藤氏、福山氏があります。

 こうしてみると、歯科医療など医業に関する情報は独占され、特定の家系内で伝授されていたことがわかります。しかし、鎌倉時代に入ると朝廷の力は落ち、典薬寮からの医術は民間に流れるようになりました。室町時代になると、民間から典薬寮への登用が行われるようになります。ただし、室町幕府への登用はありません。江戸時代になると、それまでの歴史の中で伝授を受けた家系が幕府内に大幅に登用されています。

 平安や江戸など安定した時代には政治中枢部に医療制度が組み込まれますが、鎌倉や室町時代のような乱世時代(宗教が流行る時代)には医療は民間に留まったように思います。盤石で安定した国家形成のためには医療制度の制定が必要であり、政権が安定しなければ医療にまで手が届かない、ということでしょうか。海外の医療の歴史を見ると、戦争により情報が流通し、新しい医療技術が開発されていますので、日本特有の特徴なのかもしれません。

 とはいえ、社会全体を占める「民間」の医療についてはよくわかりません。歴史は所詮、残された文書・資料からしか語れませんので、民間での医療に関しては断片的な風俗資料から推測するしかありません。

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