見出し画像

愛の段階

『ラーダーラサスダーニディ4節』(RRS4_170902)

“ブラフマー、シヴァ、シューカデーヴァムニ、ナーラダムニ、ビーシュナヴァのような偉大な聖者で信者でさえも、クリシュナに会うのは容易ではない
その至上者クリシュナでさえも、いとも簡単に征服されてしまう無限の力を持つシュリーラーディカーの蓮華の御足の埃を私はいつも思い出す”

この節は、ブラフマー、シヴァ、シューカデーヴァムニ…シューカデーヴァゴースワミとも言います、ナーラダムニ、ビーシュマのような主の偉大な信者でさえも、クリシュナを見るのは容易ではない、ということ

『シュリーマドバーガヴァタム』を読むと、例えばこのシヴァやシューカデーヴァやナーラダムニ、ビーシュマ、このような方々は、マハージャン(偉大な人物)と呼ばれている

偉大な人物ということは、私たちがこの人たちの足跡に従う人物に数えられている

つまり、主の偉大な信者、献身者であると、スタンプで押されているのがこの方々

しかしここで、彼らでもクリシュナに会うのは簡単ではないと書かれている

例えば『シュリーマドバーガヴァタム』の1編に、ビーシュマの祖父が他界の時が載っている

ビーシュマは、自分の死ぬ時を自分で選べるという祝福をいただいていた
そのため、戦場でたくさんの矢に射られても、死ぬ時を待っていた
死ぬときは、主クリシュナに会いたいと思っていた
クリシュナはそのハートがわかっていたので、パンダバ兄弟たちと、ちょうどその時にユリステラマハラージ(パンダバ兄弟の長、戦争の一番のトップ)が戦争で勝ちはしたが、当時クルクシェートラの戦いには6億人が戦って6億人近くが亡くなったと言われる大戦争であった、イメージ的には中国とインドがお互いに十数億の人口がいて、その中の6億人が亡くなったというような、そのような壮絶な戦争だった

このクルクシェートラの戦いの時に『バガヴァッドギーター』が書かれた
そういうシチュエーションでユリステラは考えた
私は罪のない人たち、私はダルマと言いながらも、たくさんの罪のない戦士たちを殺してしまった、それは実は親戚縁者でもあり、友人でもあった。叔父のような方々でもあった、師匠のような方々でもあった。その人たちには家族がいる、そしてその人たちが亡くなったので奥さんは未亡人になって、子供たちは片親の経験をさせなくてはいけなくなった。これは私はとてつもない罪を犯してしまったのではないかと、後になって思い始めた。
私はダルマのために戦ったとはいえ、たくさんの人を苦しめてしまったのではないか、と。
ユリステラは王様で、この責任は自分にあると考えた
どうしたら良いのか分からず、その回答を与えてくれるのが、ビーシュマ祖父だった
彼はダルマを知っていた

そしてビーシュマ祖父がもう他界する直前だったので、そのことも踏まえてビーシュマ祖父のところに会いに行った

これが『シュリーマドバーガヴァタム』の1編に書かれている

その時にクリシュナが現れた
ここでは詳細はお話ししませんが、クリシュナが現れた時にビーシュマはすごく喜んだ
おお主よ、あなたは慈悲深くも、こんなに堕落した私のベッドのところにもあなたは現れて下さった、と喜んだ

これはどういうことを意味しているかというと、クリシュナは、ビーシュマなどのような人ですらも簡単に会えないということ

ブラフマーもシヴァも、シューカデーヴァも、クリシュナにそんなにすぐに会えるわけではない

ナーラダムニもそうだが、ドワラカなど他の国も旅しているので、比較的他の人よりも合うか率は高いが、それでも難しい

ではなぜ、マハージャンと呼ばれているこれらの方々が、クリシュナに会うのが難しいのか
これはすごく重要である
この
回答がわかれば、バクティをすごく理解しているということである

この回答は、実はブラフマー、シヴァ、シューカデーヴァ、ナーラダムニ、ビーシュマは、クリシュナに対して、アイシュワラ関係を持っていたということ

つまり、クリシュナの力と富によって魅了されていた方々であった
つまり純粋なマドゥーラの段階に入った方々ではなかったということ

別の言い方をすると、プレマが十分でなかったということ
つまり愛が十分でなかったということ

ビシュマナバーティチャクラタークラによると、プレマにはたくさんあ理、神への愛、クリシュナへの愛、と通常訳するが、初心者はプレマがゴールだと思っている

これはバクティラサームリタシンドゥによるとプレマがゴール
だがプレマの上に7段階ある
このことがルーパゴースワミの『ウジワラニランバニ』という本に詳細に書かれている

プレマの上は、スネーハ、マナ、プラナーヤ、ラーガ、アヌラーガ、バーバ、マハーバーバ

愛はこのような形で、プレマは熟してくるとさらにその上に、7段階ある

その頂点に立つマハーバーバとは、マハーバーバの権化が、シュリマティーラーダーラーニーなのである

バーバとはすごく簡単に訳すると愛、マハーとは最高の、これ以上ない、つまりマハーバーバとは、これ以上ない最高の愛、ということ

この節によると、シュリマティーラーダーラーニーは、シュリークリシュナをコントロールできないと書かれている

シュリマティーラーダーラーニーは、クリシュナと会うことができるのではない、コントロールすること、服従させることができるということ

なぜかと言うと、クリシュナが最高の愛を持っているから、クリシュナを服従させることができるということ

例えば奥さんが旦那さんに対してすごく愛を持っているならば、旦那はその愛に服従して、いうことを聞かざるを得ない

恋人がいたとして、恋人がすごく惚れているとしたら、愛されているとしたら、その愛されている人の言葉の言いなりになってしまう

それは、愛によって、クリシュナを支配できるということ

つまり、ブラフマー、シヴァ、シューカデーヴァ、ナーラダムニ、ビーシュマは、アイシュワラの見地から言ったら偉大なディボーティであるが、マドゥーラという愛の見地に立った時には、クリシュナに会うまでの愛に至っていないし、ましてやクリシュナをコントロールできるほどの力はないとここでほのめかしている

シュリーラビシュナバーティチャクラタークラは実は、愛には、プレマには、別の言い方の4段階あると、愛には4段階あると言った

それは、愛が原子のような小さな愛を持っている、私たちのようなサーダカ、バクティのような実践者だけど、愛をほんの少し原子の1粒子ぐらいしか持っていない
次に、ナーラダムニなどの献身者だけど、原子よりは多いけれどもそんなにたくさんはない
次に、ヴリンダーヴァン、ヴラジャの人々は、クリシュナの愛をたくさん持っている
次に4番目は誰かと言ったら、シュリマティーラーディカ、ラーダーラーニーのように、クリシュナの愛を、最高段階持っている

この4段階があると、シュリーラビシュナバーティチャクラタークラはその解説の中で言っている

ここでのポイントは、たくさん愛を持っている、その中でも、シュリマティーラーダーラーニー、もしくはシュリマティーラーダーラーニーの足跡に従うゴーピーたち、マンジャリーたちは、クリシュナをコントロールするほどの力を持っているのですよ、ということ

クリシュナをコントロールする力、それがシュリマティーラーダーラーニーの蓮華の御足の誇りである
この蓮華の御足の埃を得るためにどうするのか、と言った時に、ラーダーラーニーの慈悲が必要、あるいはラーダーラーニーの、ダーシー、ラーダーラーニーの側近の人たちの慈悲が必要だということ

ここで私はシュリーラーディカーの蓮華の御足の埃をいつも思い出しています、と書かれている

埃を思い出しているとは、どのようにアーチャーリャは解釈しているかというと、この蓮華の御足の誇りというものは、ラーダーとクリシュナのリーラーのこと、マドゥーラのすごく甘いリーラーのこと

精神界、ゴーローカブリンダーヴァンでラーダーとクリシュナが1日24時間何をしているかというと、これが、アシュタカーリヤリーラー、という

アシュタとは8つ、という意味
カーリヤは行動とか、時間帯、と言っても良いかもしれない

1日24時間を8つの区分に分けてその区分でラーダーとクリシュナが何をしているか

そこのラーダーとクリシュナの甘いリーラーをいつも思い出す
これが実はシュリーラーディカーの蓮華の御足の埃を思い出すこと、と言っている

今日のポイントは、なぜクリシュナに会えないか、というと、愛が少ないから
力や富に魅了されている愛が、少ししかない段階では、クリシュナに会うことは極めて難しい

ところが、ラーダーラーニーの足跡に従って、あるいはラーダーラーニーの僕の足跡に従う人たちはたくさんの愛を得ることができるので、クリシュナをコントロールすることができる、支配下に置くことができる

その力を、ラーダーラーニーの蓮華の御足の埃が持っている

蓮華の御足の誇りとは、実際に埃もある、埃は別の意味から言うと、ラーダーラーニーの側近の者たちのことも指す
ラーダーラーニーのマンジャリーや、時にはサキーかもしれないが、そう言う側近の人たちの足跡に従う、そう言う側近の者たちの慈悲を得ることによって、私たちは愛を大きな愛を得て、そしてクリシュナを支配することができるようになる、

これがこの説の簡単な解説である

ジャイジャイシュリーラーデー!


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?