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わたしはバケモノだった①

はじめに

わたしの家は普通の家でした。

金銭的に不自由もなく、
父と母もなんやかんや仲が良く、
わたしも妹も仲良しで、
家族中が良くていいねと
よく周りから言われてもいました。

行きたい学校に行き、大学に行き、
一部上場企業に勤めて、
仲間のいっぱいいて、彼氏もいて、
海外旅行に行ってと
幸せに暮らしているつもりでした。

しかし、わたしは6歳くらいから
いつもどこかで不安でした。

学校や会社でどれだけ中のいい人が居て、
グループになじんでいるように見えても、
心の奥底では
「わたしはよそものなのだ」
感じていました。

完全になじむこともできずに、
本来の自分を出すこともありませんでした。

本当のわたしを見たらきっと、
みんなわたしのことを恐れて
逃げていくのだとも思っていました。

わたしは人間の形をした
ばけものようなものでした。


世の中には、
たくさんの苦しんでいる人がいます。

戦争や災害に巻き込まれている人、
重い病気にかかり必死で生きている人、
家庭環境が複雑な人、
毎日必死で生きている人が居ます。

ユニセフの寄付を見るたびに
わたしは家があり、食べ物があり、
幸福なのだと言い聞かされ、
世界の女の子を支援する団体を見るたびに
自分が性別や年齢に関係ない世界で
生きていることを思い知らされる。

それに比べて
わたしは、とても恵まれていました。

わたしは住む家があり、お金があり、
食料があり、家族がいて、学校に行ける。

それなのに、苦しくて、
不安になっているなんて、
なんて恩知らずの罰当たりな
人間なんだろうと思うと怖くて、
苦しいなんて言えませんでした。

そうやっていつも
自分の気持ちを他人と比べて
世界の会ったこともない人たちと比べて
苦しんでいた今までのわたしと向き合って、
ようやくわたしは素直に
苦しかったと言えるようになってきました。

それを恥じることも、
怖がることもなくなってきました。

わたしは35歳にしてようやく、
わたしがばけものではないことを知って、
今ようやくこの本を書いています。

1・自分の身体を傷つけていく

中学生のころのわたしの記憶は
とても楽しくて充実しているものでした。

友達は多く、
有志のアカペラグループやバンドなどをし、
文化祭の演劇は主役、
勉強も楽しくて順位も10番以内、
部活動の剣道も地域の講師や
別の学校の先生に面倒を見てもらい、
自分もチームも強くなりました。

とても充実していたのです。

しかし、わたしはその時期に、
自分を傷つける行為を行っていました。

しかし、当時は
それが問題だとは気が付きませんでした。


自分でも変だとおもっていませんでしたし、
周りからも指摘されることも
ありませんでした。

わたしが行っていたのは、
自分を殴ることと髪の毛を抜くことでした。

他人にいわれたことや
自分が思った通りのことができないときに
わたしは自分の身体を殴っていました。

自分の腕や腿を痣ができるまで殴り、
足の甲を痛くて動けなくなるまで
踏みつけていました。

時には自分の顔を殴り、
頭を思い切り叩きもしていました。
自分を傷つけると
すっきりとして安心しました。

特に部活動の剣道をしている最中に
わたしは自分を殴っていました。

うまい足運びができないときに
足の甲をかかとで踏みつけ、
剣さばきがうまくできなかったら
腕を殴りつけていました。

なんでこんなこともできないのか?
こんなこともできないお前なんか
いらないと思っては殴っていました。

みんなが見ている前でも
普通にしていましたが、
当時の顧問の先生はこんなに悔しがるくらい
一生懸命な子は見たことがないと、
わたしのことをほめていたので、
自分でもわたしは熱心でストイックなのだ
と思っていて、気にもしていませんでした。

また、前髪を抜く癖があり、
気が付くとプツプツと
髪の毛を抜いてしまって、
前髪が剥げてしまっていました。

 それに気が付いた母と妹に
髪の毛を抜くなと言われるものの
我慢すればするほど、ストレスがたまり、
家族がいないときに、髪を抜き続けました。

髪の毛を抜くのは楽しくて、
すっきりとして穏やかな気持ちになるのです。

特に、不安になる夕方や夜に抜く癖が強く、ベッドサイドには
髪の毛がたくさん落ちているのを
こっそりとゴミ箱に捨てていました。

前髪を抜く癖は
部活に夢中になっていくうちに
自然となくなっていました。

わたしは通っていた中学から1番遠い、
公立進学校に進学しました。

そこは県内で一番古く、剣道も強く、
田んぼの真ん中にあるような高校でした。

いままでの自分のことを知っている人が
ほとんどいない場所に行けば、
自分の居場所があるんじゃないかと
思っていたからでした。

高校生活は普通に楽しかったです。

わたしの周りはクラスも部活動も
優しい子やまじめな子が多く、
校風は自由で穏やかな雰囲気でした。

しかし、その中でも
わたしは静かに劣等感を募らせていました。

部活も中学のころ、
自分ではかなり強くなったと思っていたら、
わたしが進学した高校には
全国大会、関東大会、県の強化選手に
なっているような人たちが大勢いて
わたしはむしろ、下手で弱いほうでした。

成績も下のほう、
クラスでは目立たない地味な存在で、
にこにこして、自分の意志が
はっきり言えない人間でした。

なのに、
主張の強い子たちやおしゃれな子たちが
クラスを仕切っていたり、
ムードメーカーになっていたりするのを
みてうらやんでいました。

わたしも、本当は人に注目されて
中心になりたかったんです!

でも、わたしはブスで、デブで、
乗りも悪い、気も使えない、
つまらない人間だったので
そんなことは真似すらできませんでした。


高校生のわたしは、
猟奇的なものや心の闇に興味があり、
本や映像で人間の闇の部分について
書いてあるものをよく読みいました。

クラスの隣の席に座っていた友人も
そういったことに興味があったので、
ふたりで交換しながら猟奇殺人の
本当に起こった本を読みながら、
解剖学を見るようなことをしていました。

人間の闇の深さや
不可思議な行動に好奇心が
そそられてワクワクとしていました。

その頃に、テレビの特集で
非行や自傷行為に及ぶ子どもたちに
寄り添う人のノンフィクションをやっていて、
その中でリストカットという行為を知りました。

当時、興味があったので、本で調べると、
アメリカの少女たちの中で爆発的に
流行ったことがあるようだとわかりました。

誰かがはじめると感染するようになると
書かれているのを見て、
その影響度におもしろいな
とは思いましたが、その時には
実際にやってみることはありませんでした。

高校生の半ば、
自分の進路をどうするのか、
何になりたいからどういった勉強をするかを
考えなくてはなりませんでした。


わたしは看護学部のある学校を
受験するために
国立の文系のクラスに入りました。


看護師になるのは、母の希望でした。

わたしは子どものころから
医者になるように母に言われていました。

母としては、
世界中どこにいても通用する仕事に
ついてほしかったようで、
子どものころから、
将来の夢を聞かられことなく、
将来は医者になるのよね?と
言われていたので
特に疑問もありませんでした。

しかし、わたしの成績が思ったほど
よくないとわかってきたときに、
母が看護師になりなさいと言い、
わたしはそれに従って進路を出しました。

幼少期は小児ぜんそく、
小学生の頃は交通事故で入院と、
子どもの頃から病院に行くことが
多かったのですが、
わたしはそこで自分が働くイメージは
できませんでした。

看護師さんたちは優しくしてくれたし、
同い年くらいの友達がいて楽しかったけど、
毎夕、母が帰ってしまう時の病院は
とても怖くて寂しかったのでした。

みんながケガや病気をして集まってる病院、
車椅子にのった力のないおばあさんが
いつもなんだか臭くて怖かった。

あんな場所で働くなんてできない。
人が死んでたくさんおばけも出るだろうしと、
高校生になっても怖かったです。

それに当時のわたしの興味は映画。

映画監督になって、映画を撮りたいと思い、
母に看護大学ではなく、
芸術学部に行きたいと伝えてみました。

すると、母から帰ってきた返答は

「いいよ。
でも、看護大学を卒業して、
国家資格を取った後にして。
そのあとは自由にしていいよ。」

わたしはほっとしました。

それならさっさと看護大学に入って
自分の好きにしようと
単純にすればいいやと思っていました。

わたしはなるべく遠くで、
家族から離れられる
看護学部がある国立ばかり探していました。

近くても千葉大。
島根、高知、山口、沖縄。
どうにか、離れたくて
仕方ありませんでした。

進路別の新しいクラスになって、
同じように医療や看護を目指す友人が
できて話していると、わたしは徐々に
違和感を感じるようになりました。

わたしのような、ただのタスクとして
看護の道に行こうとしているのではなく、
みんな人を救いたい、だれかのためにと
考えている子ばかりでした。

わたしの話を聞いて、
そんな気持ちで受けようとしているなんて
嫌な気持ちになると友達に
はっきりと言われたこともありました。


違和感がぬぐえなくなり、
何度か母に交渉しましたが、
母はただうなづきながら聞き流して、
じゃあ、国家資格取ってからね。
と最後に言われていつも終わりました。

母との間に話し合いなどありませんでした。

時には威圧的に理詰めされて、
わたしの本当の気持ちなど、
母は興味がないのだと思っていきました。

結局、母は母が望んだ通りにする
わたしのことしか見えず
そうではないときには
話を受け入れることはなく、
怒り始めるだけでした。

そんな生活をしていたわたしが
リストカットをすることになる
直接的なきっかけは、
部活動の剣道でスランプに陥ったときでした。

わたしは、どうにかギリギリの成績で
レギュラーに選ばれていたのですが、
ある時突然、
全然勝てなくなってしまいました。

不安と苛立ちで弱音を吐いていると
メンバーから注意され、
実際の試合でも勝てずに焦っていました。
それでもどうにもできませんでした。

大会の日にわたしはまた調子が悪く、
負けてしまい、そのまま挽回できずに
団体戦で負けてしまったことがありました。

その帰りに、
部活のメンバーの一人がわたしに言いました。

「maryがいなかったらチームは勝てたのに、あなたのせいだよ。」
わたしは驚いて、謝りました。
自分でも、ダメだったと言う自覚が
あったからでした。

家につく頃に、
その友人からメールが来ました。

本当のこととは言え、
さっきは言い過ぎたの、ごめんねと 連絡が来たのかと思って読んでみると、

「さっき帰りに行ったことだけど、
 あれ本当のことだからね。」と。

とてもショックを受けて、
一人で家で泣きながら思いました。

「わたしがいるとやはり人の迷惑になるんだ。わたしは欠陥品だから!
いるだけで迷惑になるんだ。
迷惑をかけているわたしなんかいらない。」

今までずっと心のどこかで
思っていた不安が爆発した瞬間でした。

わたしの頭の中では、
怒鳴り声でいっぱいになりました。

「お前はどうしてこんなにバカなんだ!
お前が欠陥品だということを忘れて
浮かれているからこんなことになるんだよ!
お前がなんかが調子に乗ったから、
迷惑がかかったんだ!」


その声と一緒に、
力いっぱい自分の腕や足を殴りつけました。

なぐっても殴っても収まりませんでした。

欠陥品だということを忘れてしまうなら、
忘れないようにしないといけない。

その瞬間、
リストカットのことを思い出しました。

傷があればバカなわたしでも、
忘れずにいられるに違いない!

わたしは次の日に薬局で剃刀を買って、
自分の左腕の外側の手首を
試しに切ってみました。

怖くて、薄く切りつけて
薄皮が切れただけで、
血は出ませんでした。

これでは、意味がないと思って、
もう一度思い切って強く切ってみると
皮膚はきれいにパカっと切れて
そこから血がプツプツと
ダマになって出てきました。

綺麗に切れたからなのか、
痛みはあまりありませんでした。
ただ血が出ているだけでした。

それをギュッとティッシュで
押さえつけました。

わたしは欠陥である人間を
しっかりと罰することができましたし
傷がついたことで
わたしが欠陥品だと
わかりやすくなったことは
わたしを安心させました。

わたしはリストカットのおかげで、
達成感を感じ、安心しました。

その日からわたしは
自分への怒りが収まらないときには
同じ場所を切りつけていきました。

当時、部活でテーピングを
よくしていたので、
テーピングをしていても不自然ではない、
手首をよく切っていました。

慣れてくると
夕方、夜、朝の学校に行く前と
誰もいない時を見計って、
切っては安心して、
すっきりとしていました。

リストカットをはじめて
数ヶ月経ったときには、
慣れてきたからなのか
切っても切ってもあまり痛みを感じず、
物足りなさから
左腕、腕、太ももといろいろな場所を
切るようになっていきました。

それでも収まらないときには
その上から痣ができるまで殴りつけました。

ときより不安になっては
家族とケンカをして、壁に穴をあけたり、
ベッドのマットレスをカッターで
切り刻んだりもしていました。

しかし、自分以外のものを壊すと
強い後悔が襲ってきました。

わたしみたいな無価値で、
ダメな人間が他のものを傷つけるなんて
底辺でクズがなにやってんの?

と、わたしはまたわたしを傷つけました。



自分を罰するためにと始めたものの、
だんだん誰かに言いたくなってきて、
わたしは試しに友達の何人かに
リストカットしていることを伝えました。
友達が心配してくれて
うれしかったのを覚えています。

しかし、家に帰るとそんな自分に
酔っている自分のことが気持ち悪く、
それを罰するために
また自分のことを傷つけました。

ある時、風呂上がりに
脱衣所で服を着ているときに
傷跡を母に見られました。

わたしは不安になりましたが、
どこかで母がそれを見て謝って
優しくしてくれるかもしれない
とも思っていました。

しかし、母はそのあと
何にも言ってきませんでした。

母は見て見ぬふりをしたのだと思いました!

やはり、母もわたしが欠陥品だと
思っているのだと思い、
わたしはショックを受けつつ、
母がそこまで無関心になるほど、
わたしはダメで欠陥品なのだと思って
自分自身への憎しみが増していきました。

そのあと、父にも見つかりました。
父は泣いてわたしを抱きしめてくれました。

わたしは父に好かれていたんだなと思って
うれしかった半面、
やはり母はわたしがいらないのだと
思って孤独を感じました。

そのあと、
わたしは父に、看護師になりたくないと
いうことをようやく伝えて、
看護専門の予備校やめて、
すべての志望大学を変更しました。

しかし、わたしは大学受験に
失敗してしまいました。

浪人するか、それとも
滑り止めで受けた大学に行くか考える間、
わたしは母方の祖父母のいる
九州に行くように、
母に促されて祖父母の家で1
か月ほど過ごしました。

この時のわたしは
母に見捨てられたのだと思いました。

自障癖あり、言うこと聞かない、
やりたいと言ってやったらすべて落ちる
バカなわたしを自分では構いたくないから、
遠い祖父母のところに送ったのだと
思って悲しくなりました。

それでも、祖父母に会えることは
とてもうれしかったです。

祖父母の住んでいた場所は温泉地で、
山、川、畑と自然も多かったですし、
老人のゆったりとした生活は安らぎました。

温泉地だったこともあり、
お風呂に入る時は
近くの公衆温泉浴場に毎日行きました。

そうなると、
毎日祖母と一緒に脱衣所で
着替えることになり、
祖母にはわたしの傷を
見せることになりました。

祖母は特に傷については言わず
こういいました。

「生きているのって苦しいのよ。この世は地獄だからね。死んだら極楽に行けるから楽になれるんだよ。早く死んで極楽にいきたいわ。さ、お風呂入ろ。」

このときわたしは
すっと気持ちが楽になりました。

自分を罰するために一番いいのは
この地獄を生き続けることなんだ

嬉しくなりました。

浪人したのち、わたしは結局、
1回目に受けた滑り止めの大学と
同じ学校に入ることになりました。

父からは
何がもっといい大学に入るだよな、
これなら浪人しなくてよかったじゃないか
と言われました。

わたしは肩身が狭い思いをしましたが、
自分が馬鹿なせいで言われていることなので
仕方ないと思っていました。

大学に入学する時にわたしは
自由奔放で楽しく子どものような
キャラクターで行こうと決めていました。

大学は楽しかったです。

やっと心から落ち着ける、
焦りのない状態になりました。

それに母はあなたは早生まれで、
もともとの学年だと
一年発達が遅れていたから、
一年浪人してやっと能力が
同じになったんだろうねと
わたしに言いました。

その時は素直に喜びました。

やっと心が解放されたような
心地がしたからでした。

でも、時間が経って、やはり、
母はわたしが同じ学年の子よりも
劣っていると思っていたんだなと思って、
自分のダメさが続いていることを感じました。

大学生になり、
新しい人間関係と新たにはじめた部活も
楽しくて自分がダメな人間だということを
すっかり薄れていきました。

初めの頃こそ、
人に気を遣えない自分に苛立ったり、
人を疑う自分になんてダメなのだろうかと
思ってリストカットを続けていましたが、
大学1年の後半には
新たな生活もなじみ、
自由な行動もできるようになって、
リストカットは自然と落ち着いて行きました。


生傷がなくなったわたしは
少しずつ、腕を出すようになっていきました。

はじめはサポーターや長袖を着ていましたが、わずらわしくてとりました。

わたしはこんなことくらいで引くなら
わたしに近づくなとも思っていました。

周りの人は大体気が付いても
気づかないふりをしてくれて、
聞かれたときには、
まぁ昔いろいろとと言えば
それで終わりました。

わたしはその生活に満足して、
わたしはもう大丈夫なのだと思っていました。

しかし、わたしは
ここで自傷癖が終わったわけではなく、
“リストカット”が終わっただけで
次の自傷が始まるようになりました。



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