「大河ドラマはポリコレから遠い」という空想と、男性全般を特権階級に包摂した大河ドラマのポリコレ性

ちなみに筆者は幼少期から大河ドラマについては、家臣などがいちいち御館様などの目を直視して物を言う描写にどうも馴染めない。

ただ戦後民主主義的には正しい方向であって、ああいうのを筆者は「一般人男性をエンパワーメントしたつもりが『元々特権階級の一部だ』と錯覚させた古拙なポリコレ」だと思っている。


呉座勇一氏、師匠が平泉氏なのか。

庶民に歴史などないという平泉、特権階級が歴史の主役という平泉でございますか。

これだけだと分かりにくい人用に補足的に言い換えれば、20世紀前半には身分差別や人種民族差別、性差別はどれも男尊女卑(=男らしさの多寡)で説明されがちだった。

「男らしさは強い心身を作り、女らしさは懦弱な心身を作る(注・ニセ科学)。いまの支配的集団は、代々の弱肉強食で選抜された(注: ニセ科学)、生物的に男らしい血統だ(注: ニセ科学)。その男らしい人々の頂点、王たちの王たる皇帝に権力と資源を集中し、下々が彼に無心にお仕えすれば、国内政治は腐敗せず、世界には恒久平和が訪れ、文明が発達するはず」

という19-20世紀の帝国理論の一支柱ですな。226事件からアジア支配までこれを踏まえると分かりやすい。

むろん今の世界の常識では、人類は遺伝的多様性が極めて乏しい生き物(要はみんな身内)で、血統や人種や階級の優劣はない。生き物は基本メスなので男が優れる可能性もない。スポーツなどでの男女差は「ヒトはオスの身体がメス化(大型化)しやすい動物の一種だから」だ。これは間口を広げただけの新たな優生思想というより「一時期自分の血筋を特別だと思っていた子が、実は自分も他のみんなも変わらず、自分の父祖が他を代々差別で潰してきただけだと気づいた。」という、幸福厨二病期の終わりみたいな案件だろう。

むろん時代時代の覇権国の男性を「世界の正統支配者」と捉える以上、たとえば20世紀前半には日本人の支配的な集団よりもずっとそう主張可能な人々がいた。我々日本人はそこをオカルトでごまかした。

なお、そのように森羅万象から国際関係までを「科学的な男尊女卑」で説明する当時の疑似科学から派生した宗教に、今なお名門大学や日本の政界への浸透で有名な通称『統一教会』がある。

そんな端的にいえば優生思想、さらにいえば社会的ダーウィニズム歴史版とでもいうべき考えが持論の平泉が師匠。

1945年までならノーマルだがそれは呉座勇一氏、師匠運が悪かった。だってだぜ、終戦で終わったはずの国策アカデミズムじゃないか。

前提が違う

「男らしい男が文明の主役。男らしい男が支配する帝国と、その帝国の世界支配が王道楽土」

的な結論ありきの世界ならともかく20世紀後半には化石的な、あの思想の弟子なら今回の一件はちょう納得。

師匠に忠実なのは良いけど、現代とは前提が違うから、切り捨てちゃっていいと思います。守破離ですよ守破離。

腐敗を「女らしさ」と仮定したうえで男らしさを称揚する昔の思想とニセ科学

19-20世紀初頭、それまでのロココ的な社会の腐敗と市民革命への反省からは、

A.  民主主義を徹底する方針を選んだ人々(しかし古代ギリシャ風なので男尊女卑は絶対視、奴隷制もあり)
B. 帝国的な方針を選んだ人々、つまり「(ニセ科学では)男が理性的で強く、女は享楽的で弱いはず。つまり「男の中の男」による支配で社会が安定するはず。女みてえなやつら(女性、庶民、異民族、同性愛者、宦官…)を徹底排除せよ」と信じる人々

が出た。

我々日本は後者で、その理論的支柱に平泉的な思想があった。

しかしたとえばロココ的な「女みたいな奴らがのさばる」社会は、ずいぶん多様で魅力的でもある。

外交では娼婦ポンパドゥール夫人が国際社会で大国の女帝たちとの交渉に活躍し、内政では異民族の被差別階級の路上アーティスト出身で性的マイノリティーだったジャン・バティスト・リュリが活躍したように。

あるいは最近ファンタジー映画として出たが、南インドローカルの大切な伝説でもある『バーフバリ』のように、男と女も奴隷と王もほぼ対等に話す描写は、別におかしくはない。

ポリコレというよりは恐怖政治の暴君に道化が憎まれ口を言えるようなもので、動かしがたい身分の差があると、潰す必要がないのだ。

たとえばロココのフランス宮廷では黒人も女性も下層民も活躍したが、大貴族と下級貴族のあいだには過酷な差別があった。

差別や腐敗は別として、いろんな出自の人が活躍すること自体は現代人からみると好ましい。なにせ平泉等の歴史観や近代的な優生思想では歴史の主役は少数の支配集団で、他は「お前ら元々無能だろ」とされてたわけでね。

その同じ現実を、少し前までの近代人は「宮廷のメンバーが男らしければ社会は腐敗しなかったはず。女みたいな奴らのせいで腐敗したのだ」とみていた。

そのため、18世紀半ばまでであれば西洋でも帝国運営の参考と憧れは清王朝やオスマン帝国だったりした。「強烈な差別と男尊女卑が腐敗防止と安定の秘訣じゃないか?※」と。

人々が社会問題を「女や異民族のせいだ」と考えるのは古今東西本当によくある、歴史の法則である。

※とはいえ、清王朝やオスマン帝国の内部や周辺も

女や宦官や同性愛者を厚遇するから腐敗したんじゃないか。もっと「男の男らしさ」と男尊女卑を徹底すれば理想社会ができたんじゃないか

と考えたりした。たとえばオスマン帝国から諸民族を解放した英雄サウード家のサウジアラビアなどがああいう文化な理由だ。

ともあれ、身分社会と男尊女卑など複数の差別が併存する社会ではしばしば身分制が最優先されるため、各身分の内部では平等に近く見える。

その様々な差別撤廃が進んだ20世紀、最後の「正当な支配」として男女差別が残ったことは教養であり教訓だろう。

男尊女卑は大半の集団に適用可能な無力化と分断政策であるし、有色人種でも被差別階級でも、男性が自らを良き支配者だと思いこむ誘惑は逃れ難かったのだ。

日本のように、開国前から昭和の戦後まで長らく女性労働依存の製品が花形輸出品だった国ですら(だからこそだろうか)、かろうじて男女雇用機会均等法が通ったのは20世紀末近くのことだ。

しかも骨抜きで、日本型福祉社会(政府が政府の役割を果たさず、女性差別に守られる社会)と抱合せで。

そうしてジョン・レノンが「女は世界の奴隷か」と歌ったはずの1970年代以降の空気で育った男性以降の一部が、アンチフェミニズム化した。

大衆文化のおかげで庶民男性は、たった数十年で「庶民など歴史の主役たり得ない」扱いから「自分らは歴史と文明の主役だが、奴ら(女その他)はそうではない」かのように信じ込むことが可能になったのだ。

今のハリウッドなどはその反省の上にある。あたかも「北方欧州系白人男の支配が天地自然の理だから、昔に行けば行くほど男女不平等の理想社会だった」とおもいこむような、特権意識に狂った男性が一定数生じるせいでもある。

アンチフェミニズムの中世ファンタジー

大河ドラマはポリコレとは遠いはず」という感覚は結局、現実の中世に「男が女を守る騎士道ファンタジー」や「弱肉強食ファンタジー」を求めるような考え違いだ。

筆者は小学生でも知っていた一般常識だが、近現代の大衆文化は工業化社会の都市部出稼ぎ単身者等の弱者男性をメインターゲットとし、彼らの自我を支え、自尊心を補完する作品を作り、売ってきた。

ターゲットの間口を最大限に拡大するため、ポップカルチャーはミソジニー/女性蔑視に頼ってきた。

男が男だから」が褒め言葉になるのでずいぶん間口が広がる。

弱さは「女々しさであり、男である自分とは本来別。」として他者に転嫁できる。

卑下する対象はとりあえず「女や女っぽい奴ら」と認識し直す。

「男なら」「男だから」「女にはわからん」「男が女を守っている」。そんな雑な世界観じゃ、一生ママに尻を拭われることになるのにね。

「男である誇り」「男なら偉業をなせ」。「女とは違う」…と自我を肥大させ、特権意識を煽り、財布を開かせようとしている…と知っているので、筆者などは小さい頃から漢向けポップカルチャーを冷めた目で見ているところがある。

なのでアンチフェミニズムのヒステリーには驚いている。「あんな露骨な釣り針に食いつくやつがいたのか」と。

筆者、『コブラ』は冴えない男の仮想現実の夢だからこそ面白いと思うほうなんで皆目わからん。

つまり

平泉的な歴史認識で切り捨てられてきた庶民男性に「俺も男だから文明の主役」と思わせたのはポップカルチャーの功罪

庶民に歴史などない帝国史観と比べれば随分ポリコレな、全市民(主に男性)のエンパワーメントのための娯楽がNHK大河

と言える。

繰り返すが、近代ポップカルチャーのカモは弱者大衆男性で、男であるほか取りたててアイデンティティがない彼らの傷つきがちな自我と自尊心を補って金を出させることが目的だ。

ターゲットがそうだからこそ「男なら」「男らしさ」「女にはわからん」「男が歴史と文明を作り、女子供を守ってきたのだ」としてきた。通常、お祖母ちゃんやママに守られて生き延びてきたはずの、無力感に苛まれる少年らに対して。

自信を与えるだけなら良いが、上記のような主張を大衆メディアで流すのは女の人々に対しては虐待的に決まっている。

しかも男性側にもファンタジーを現実と混同し「男の戦いが文明を作った。女は男に感謝すべき」などと思いこむ男性が出てくる。

腐敗と悪政の社会でも残念ながら男はたいてい腐敗側を守らないとならない立場にいるから、人道的に重要な戦いは基本的にそのへんの女性が主役になりやすく、大抵、後でロクでもない男どもが乗っ取る。フランス革命など分かりやすい例。

って世界中どこでも男でも常識だと思うんですけどね。日本のように女性依存と男尊女卑の極端な地域ならともかく。

弱者男性の自我と自尊心を女性蔑視と妄想で補うことに特化したエンタメ

に支えられてきた男たちがフェミニズムの当然の抗議に対して怒り狂うのは自然だが、これが自他の区別が曖昧なうえに無知だからだ。

それこそが今風のアンチフェミニズムの妄想、たとえば

「男が女を守っている(「フェミはさらに女を守れと言っている!」)」妄想や、

あるいは

「女性化は文明を弱体化させた。男たるもの、弱者など守らず強者を目指せ」というニーチェ的なファンタジー(ポイントはニーチェ本人が先進国社会と差別に守られた弱者だった点)

につながる。

しかし、たとえば現代のインテリの考え方はこうだ。

性別も血筋も人種も、医療やスポーツの区分程度に無意味。人間はそういう生き物だ。

教科書の偉人は西洋人男性だらけだが、人類が遺伝的多様性に乏しく性別が内面的に無意味な生き物である以上、たとえば日本にも西洋と同率で科学者になれるはずの男女がいた。

日本が西洋より男女平等に近いなら偉人が2倍いたはずだが、いない。

それは身分差別と男女差別の両方で人を潰し、支配していたからだ。

日本が後進国だったのは庶民を潰していたからであり、言い換えれば平泉的な思想が悪かった。あれは進化論の素朴な理解で支配集団の生物学的優秀性と支配の合理性をとく、優生思想だったのだ。