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「3.11」 と わたし Vol.12 いつしか生まれた母とのギャップ

JICA職員 大澤明浩さん

震災から10年の節目、
飯舘村に様々な立場から関わる人々が語る
自分自身の10年前この先の10年


今日の主人公は、飯舘村出身、現在はJICAに勤める大澤 明浩(おおさわ あきひろ)さん。

震災を経験、村を出て、小学校の先生になり、
その後青年海外協力隊として国際協力の舞台へ。

沢山の場所や人々、価値観に触れてきた10年間で感じた、
どこにでも、当たり前にある、個人同士のギャップやズレ。

福島に戻ってきた今考える、
はるか昔から行われてきた「語り伝える」こと。


大学4年生、春の雪

10年前の震災時は大学4年生。
卒業前に自動車免許取得のため、私は山形県のドライビングスクールに、合宿しながら通っていました。
3月11日は、午前で講座が終わり、部屋に戻って休んでいたときでした。
これまでに経験のない突然の大きな揺れに、身を隠すこともできずにいました。
揺れがおさまり、部屋着のまま慌てて1階のエントランスまで逃げ、宿泊していた数名の方々と外に出ました。
エントランス前の地面に地割れが見られ、呆然としていました。
そのとき、しんしんと雪が降っていてとても寒かったことに気づいたのは、地震発生からどのくらい経ったときでしょうか。
冷静でいたつもりですが、目の前のことでいっぱいだったのかもしれません。

余震の心配もあったので、1階の共有スペースで待機していて、しばらくしてから部屋に戻り、ニュースを観ました。地震発生直後は、電話が繋がらなかったと記憶しています。
当時はLINEアプリも普及していなかったと思います。友人や知人とはFacebookやTwitterで安否を確認していました。
しかし、家族との連絡手段がありませんでした。そのため、近くのコンビニから葉書を書いて送り、無事を伝えました。思い返せば、郵便だってすぐに届くはずはありませんね。
しばらくしてから実家に届いたかと記憶しています。

ドライビングスクールでは、新規生徒の受け入れを中止し、当時いた生徒たちを次々に実家に帰宅するようサポートしてくださりました。講習修了という形で対応してもらいました。山形からは高速バスで飯坂ICだったか福島西ICまで送ってもらいました。
飯舘から親に迎えにきてもらい合流することができました。
地震発生時、私の祖父母は、仕事の都合で浜通りを車で走行していたと聞きました。
私の父は、浪江高校に勤務していて、生徒やその家族の悲しい話も聞きました。
私は浜通りの高校に通っていたので、母校が遺体安置所になったという話や、同級生の家が津波に流されたという話を聞きました。
震災や津波の恐怖を身近に感じたことを覚えています。

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全校朝会で伝えたメッセージ

大学の卒業式は中止。卒業後は、4月から神奈川県川崎市の公立小学校の教員として働くことが決まっていました。
卒業と新生活に向けてやるべきことがたくさんありました。
慌ただしく川崎市に引っ越しし、教員生活が始まりました。
私は、大学進学を機に飯舘村を離れ、関東に住んで大学生活と教員生活を送ってきました。
主に帰省するときはお盆と正月でした。
世の中では、「絆」という言葉がよく聞かれていたように思います。

着任式のとき、全校生徒の前で震災の話をしたのを覚えています。
それから、何度か全校生徒の前で話す機会がありましたが、折に触れ震災の話をしてきました。そんな中、全校朝会で子どもたちにあるメッセージを伝えたことを覚えています。
「私の祖父母はあと10数年、両親はあと30数年生きるとします。
1年に2回帰省している私は、祖父母とはあと20回、両親とは60回会うことになります。
そう考えると、一緒に過ごす時間、残された時間が短く感じられます。
皆さんも家族や祖父母と過ごす時間を大切にしてくださいね。」
聞き手は小学生なので、実際はもう少し柔らかな語り口調で話しました。


震災から2ヶ月経った5月のゴールデンウィークに、普段なら帰省はしていませんでしたが、大学時代の友人が被災した人のために何か力になりたいと声をかけてもらい、飯舘の実家に招待しました。そして、数日間でしたが、鹿島に通い、地元住民の家の瓦礫撤去作業のボランティア活動を行いました。
飯舘村に全村避難指示が出されたのは、その後だったと思います。
私の家族は、祖父母と両親が別々のアパートに避難したり、4つほどの住宅を点々と避難したりしながら過ごしていました。叔父の知り合いから福島市内の一軒家の住宅を貸していただくことになりました。

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母とのギャップ

教員生活の話に戻りますが、毎年3月11日のときや防災避難訓練のときには、家族の避難生活の様子や変わりゆく飯舘の話、鹿島でのボランティア活動の話などを学級の子どもたちに伝え続けてきました。

震災以降数年が経ったある年、いつも通り実家に帰省したときの母とのやりとりとその時に受けた衝撃を今でも覚えています。
避難して借りていた家の中が帰省する度に散らかっていたのです。綺麗好きで整理整頓をまめにする母で、私もその精神をしっかりと引き継いていたので、散らかっていることを許すことができず、そのことを母に言いました。
すると母からは、これまでの転々と避難してきた経緯や飯舘の家もあることから、この地に腰を据えて生活基盤を築いていくという意識になれないことや、借りている家なので自分の家という意識と綺麗に大切にしていこうという意識がもてないということを聞いたのです。
震災以降、私は飯舘村を離れ神奈川県で生活をしてきて、家族は福島で避難生活をしてきた中で、飯舘村にいた家族同士、同じ気持ちと思い込んでいた私は、家族と言っても私たちの間にはいつしかギャップが生まれていることを知った出来事となりました。

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国際協力の舞台の中で

震災から7年の月日が流れ、私の教員生活は一つの区切りを迎えました。
中学時代から関心をもち、着々と温めてきていた国際協力の舞台へ、教員経験をもって挑戦をすることが決まりました。海外に派遣される前、国際協力の現場で必要な語学やスキルなどを約3ヶ月間訓練しました。同時の訓練は合宿型で行われ、全国各地から様々な年代、様々な背景や経験をもった約180名の人たちと行いました。

訓練生活の中で、震災に強い関心を抱く仲間数名に出会いました。
飯舘村出身ということが知れ渡り、ぜひ訓練生たちに向けて震災の話を聞かせてほしいという要望を受けました。彼らは、実のところ、震災を経験している人たちに話を聞くことに対してその悲惨さを思い出させてしまうことを懸念して、中々尋ねることができなかったというのです。
私は、正直なところ、話を聞かせてほしいと言ってもらえることは、むしろ嬉しいことでした。しかし、全国から集まった訓練生たちに期待される程の話が自分にはできるかという心配があり、当時浪江高校に勤め、避難生活をしてきた父に講座の講師をお願いしました。
訓練の中には、訓練生たちが自分たちで創ることができる自主講座というものもありました。自分たちの知識や技術、経験を共有し合うことができます。関心のある訓練生が課外時間に参加します。通常は20名前後の人が参加しているような感じでした。
だからこそ、私は驚愕したのです。私たちが開催した震災について考える自主講座の参加者が100名を超えたことに。
ここまで書いてきたような経験しかない私ですが、私や私の父からの震災や避難生活の話をきっかけに、震災や福島、飯舘村に思いをはせてもらえたことに、再び嬉しい気持ちになったことを覚えています。

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いつの時代も、どんな分野でも、語り伝えること

アフリカの途上国で2年間にわたる国際協力の活動を終え、現在、私は福島県二本松市にある独立行政法人国際協力機構 青年海外協力隊事務局 二本松青年海外協力隊訓練所(以下JICA二本松)に勤めています。
コロナ感染拡大の影響を受け、現地の活動の途中でしたが、昨年の2020年3月に避難一時帰国をしてきました。突然の帰国でしたので、キャリアについて見通しをもつことができていない状態でした。そんな中でしたので、地元の福島で、私の教員経験と国際協力経験を生かすことができる現在の仕事に出会えたことは本当に助かりました。
次のキャリアを探すため今のポジションでもあるので、仕事の傍ら、今後どのようなキャリアを積んでいこうかと情報収集や必要なスキルの準備をしています。

主な業務は、福島県の人たちに開発教育を促進していくことです。
昨年の9月から勤め始めましたが、これまでに福島県内の小中高大学専門学校の約40校の児童生徒学生たちなどに、私が途上国で経験した現地の人々の暮らしや学校の様子について伝える講座を行っています。
講座を通して、異文化理解や多文化共生に関心を持ってもらえるように心がけて話しています。私たちの身のまわりの恵まれていることや有り難いこと、感謝したいことなどに気づく時間にしたいと思いながら活動しています。

被災した学校からも、震災当時幼かった生徒たちに、途上国での体験談を通して、現地で明るく前向きに暮らしている人たちの様子を話してほしいという講座の依頼を受けることもありました。
10年前の大震災を知らない子どもたちがこれから増えてくることを考えると、私と私の母の間で経験したギャップのように、震災を経験した人とそうでない人との認識のズレは今後益々生じてくるのだと思います。
はるか昔から行われていた語り伝えること。
これは、いつの時代も、どんな分野でも、同じことが言えると実感しました。

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学び合う場所

教育に携わることはこの先も続けていきたいと思っています。
ビジョンとしては、教育格差を解決することに自分でできることをしていきたいと考えています。具体的には、子どもや大人が集まり学び合う場所を創りたいと考えています。
特に、健気に頑張る子どもたちや、家庭環境が要因で知る機会や学ぶ機会に恵まれない子どもたち、表に出る機会に恵まれない地域の人たちのために力になれることを探していきたいと思います。
これからの10年間も、これまでにまだ経験していない立場と環境に挑戦し、様々な角度から教育について考え、経験を積んでいきたいです。
10年後、自分の学び舎を何かしらの形でもっていたいです。

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関連リンク

アフリカのザンビア共和国での活動紹介
http://www.pref.fukushima.lg.jp/sec/16005e/wwt-zambia.html
ふくしまFM
https://www.fmf.co.jp/radio/jica/
ザンビアに挑戦する前の話、ザンビアでの生活や活動の話、ザンビアから帰国してきてからの話を2週にわたって放送。2/20と2/27の8:30〜。Radikoのアプリで、放送終了後も1週間視聴できます。
飯舘村 広報いいたて(令和元年5月号 HOPES)記事掲載
https://www.vill.iitate.fukushima.jp/uploaded/attachment/9103.pdf

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