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【日記】老母を連れて呉線を満喫する広島一泊旅(22.12.7)

 八十寿を越えてまだまだ元気な母が、呉線に乗りたいという。どうやら妹を誘ったのだが断られて、わたしにお鉢が回ってきたらしい。母と二人だけの旅はたぶん生涯ではじめてだが、つれあいも娘もこの頃は忙しく、仕方がない。布団をかぶった墓のつもりで同行することにした。「喧嘩しないようにね」と妹は母に云って送り出したそうだ。

 奈良から新大阪経由、新幹線で三原まで行って呉線に乗り換え、広島で一泊して翌日に新幹線で帰ってくるわけだが、まずは乗車券。往路と復路のルートが異なるのだが、往復切符で買えるのか。そして三原や呉などで途中下車ができるのか。これはJR駅のオペレーターに訊ねたところ、「山陽本線(西条または新幹線の東広島経由)と呉線(竹原・呉経由)の選択乗車が認められているため」に往復切符としての購入で構わないとの由。ちなみに三原駅はほぼ「こだま」しか停まらず、一時間に一本程度である。

 つづいて母が車窓の景色を愉しみたいと言っている呉線だが、調べたところ観光列車仕様の「etSETOra」は一日一便かつ水木金は基本運行なし。週末は混むので平日で行きたいという母のリクエストなので、各駅停車のローカル線で行くしかない。途中の「広」乗り換えで、三原から広島までひたすら電車に乗り続けて約3時間(乗り換えも含む)。

 奈良を通勤時間帯を避けた9時頃に出発し、昼過ぎに到着する三原で蛸料理のお昼を食べ、当初は呉線沿いの古い町並みの残る竹原や海軍の町・呉などにそれぞれ小一時間ほど立ち寄ってなぞと安易に考えていたのだけれど、一時間に一本しかない呉線を途中下車しようものなら、あっという間に日が暮れて、せっかくの車窓からの景色の後半は真っ暗闇になりかねない。

 新大阪で駅弁を買って新幹線内で昼を済ましてしまうか、あるいは三原で駅弁を買ってすぐさま呉線に乗れば竹原か呉のどちらかくらいは寄れるかも知れないとも考えたが、大阪で駅弁を買うのはあまりにも悲しく、三原なら蛸弁当などもあるが呉線が弁当を広げられる状況かどうか分からない。食い物か、観光か。それぞれぎりぎりまで悩み尽くして、結局、現地の蛸料理が(予想通りというか)勝利したのであった。

三原駅前の「やっさ踊り」

 昼過ぎに三原駅に降り立つ。新幹線ではほとんど寝ていた。三原駅周辺は立派な割には活気がほとんどない、というのが印象だ。行き交う人の姿もあまりない。一時間に一本の「こだま」しか停まらないゆえだろうか。

 三原港に面した、こじんまりとした「食事処 蔵」ではいわゆる蛸定食の類は頼まずに、お吸い物付きの釜めしを二人前、珍しい蛸しゃぶ(二人前から)、蛸の刺身をそれぞれ単品で注文したが、二人で割れば蛸定食の類と値段もほぼいっしょで、これは正解だったと思う。どれもおいしく、新鮮で、ああやっぱり呉の戦艦大和ミュージアムなんかより蛸しゃぶだよな、とつい直前まで悩んでいたのにみずからの選択に陶酔するかのごとく舌鼓を打ったのであった。たくさん注文してくれたから、と黒糖ゼリーのデザートをおまけに付けてくれた。ご馳走様でした。

箸置きも蛸
蛸しゃぶ(2人前)
蛸釜めし(吸物・香物付き)
蛸の刺身

 三原駅へもどって、つぎの呉線が出るまでの待ち時間を利用して隣接する三原城跡を見学。駅構内から天守台跡へ登る階段が連結している。「浮き城」とも言われた三原城は永禄10年(1567年)、毛利元就の三男・小早川隆景によって河口の小島をつないだ埋立地に建てられた。血はつながっていないがあの関ケ原での裏切りの最たる者・小早川秀秋の父にあたる。石垣はなかなか立派なものだ。

駅に直結の三原城
まさに海に浮かぶ城

 さて、メイン・イベントの呉線である。三両連結の単線、ワンマン運転でほとんどの駅はひなびた無人駅だ。三原から呉の手前の広までは各駅停車が一時間に一本のみ。広から広島までは通勤電車として快速も走っている。内陸を走る山陽本線や新幹線と別れて瀬戸内の海岸線沿いを走る路線は、戦前は東洋一の軍港といわれた呉をはじめとした軍事施設が数多くあったために、車内で列車の鎧窓を上げるようにするように命じられたり、目隠し用の板塀が設置されたりしていた時代もあったという。

呉線の主力車両227系電車
呉線の車窓から(須波のあたりか)

 一車両にぱらぱらと数えるほどの乗客を乗せて、列車はごとごとと長閑な景色の中を走る。海沿いの列車はときに海岸線すれすれ、まるで海の上を走っているかのような錯覚を覚える場所もある。途中、ちいさな港町があり、戦時中に毒ガス製造をしていた島があり、火力発電所があり、「安芸の小京都」と呼ばれた竹原をすぎ、かつて煉瓦の製造工場があった安芸津をぬけて、呉市に至る。広までの1時間40分はまるで、この国のかつてのどこかの時間へタイムトリップしたかのような時間であった。いつか機会があったら、おなじようなルートを自転車でのんびり走ってみたい。

乗り換えの広駅にて

 乗り換えの広からは学校帰りの学生や、やがて通勤のサラリーマンたちの姿も多くなり、雰囲気がすっかり様変わりする。餓島といわれたガダルカナルから奇跡的に生還した祖父が帰国して敗戦までいたのが江田島の海軍兵学校だったこともあり、呉や江田島も巡ってみたかったけれど今回は時間がない。車窓から呉港の大きなドッグを眺めながら、会ったことのない祖父がいた土地、見上げたろう空を眺めた。奈良から三原まで3時間半、三原から呉まで約2時間。そろそろ日も暮れてきた。広島着、17時03分。外はすっかり夜の帳であった。

呉のあたりの夕焼け

 ホテルは新幹線口に近いJR系列のVIA IN、一人1万5千円の部屋が全国旅行支援割引などで9千円(朝食付き)。さらにフロントで一人3千円分の、広島県内で使える「やっぱ広島じゃ割」クーポンが渡された。

 チェックインをして、荷物を整理などしてから夕食を食べに出た。ここは定番で攻めよう。広島駅ekie 内の「お好み焼き いっちゃん」で牡蠣そばと肉そば、そして生ビール。はじめて地元で食す広島焼きは、まあこんなものかといった感じだったけれど、牡蠣が旨くて牡蠣だけを単品で追加注文した。海鮮居酒屋でもよかったかも知れない。

いっちゃん ekie店 ちなみに隣の「麗ちゃん」の方が混んでいた(笑)

 食後は駅の土産物店でアルコールとつまみを買ってそれぞれ部屋へもどり、ホテルの大浴場へ行ってから、部屋飲み。テレビで「名探偵ポアロ」、歴史探偵「島津 強さのルーツに迫る」などを見ながら。賀茂鶴、旨し。

正直、ちょっと買い過ぎた気がしないでもない。

 翌朝はまだ暗い6時に目が覚めた。せっかく広島に来たのだ。スマホのグーグルマップで確認して、広島駅に近い原爆慰霊碑を朝日のなかで巡ってくることにした。着替えをして、ホテルを出た。

大正橋から
段原地区町民慰霊碑
荒神陸橋からの日の出

 暗くつめたい空気の中を広島駅の南側、猿猴川沿いに松原地区(荒神学区)町民慰霊碑、的場地区町民慰霊碑、段原地区町民慰霊碑に手を合わせて巡り歩いているうちに日が昇り始めた。一時間ほど歩きまわって、ホテルへもどった。

コメダ珈琲の宿泊者専用朝食メニュー

 8時過ぎに母と待ち合わせて、朝食会場である1Fのコメダ珈琲へ。宿泊者専用メニューの中からホットドッグとゆで卵のセットを。歩きまわるにはこのくらいがちょうどいいかも。

 9時過ぎにホテルをチェックアウト。駅のコインロッカーに余分な荷物を預けてから、路面電車で平和記念公園へ向かう。10分ほどで原爆ドーム前着。

 はじめて見る実物の原爆ドームは案外と小さかった。相生橋、なんどもこの橋の名前を聞いた。核兵器廃止の署名をしてボランティアの小柄な老女性にガイドをお願いした。平和記念公園はこうしたボランティアのガイドの人たちでいっぱいだ。町をあげてこの悲劇を未来永劫、伝えていかなくてはいけないという強い意志を感じる。

 原爆投下に広島が選ばれた理由。軍都であることなど二の次だった。人口密集地で、空襲被害を受けていないこと。爆風によって最大の効果を発揮できる地形。原爆投下に合わせてデータ収集のための測定器が放たれ、占領後は米軍によるABCC(原爆傷害調査委員会)が比治山に設置されて人々は治療を期待したが研究のためだった。すべては無数のいのちを利用した実験だった。

ガイドさんの手持ち資料

 いまも身元の分からない7万もの遺骨が納められている土饅頭の原爆供養塔、韓国語で会話をしていた女性二人が清掃をしていた韓国人原爆犠牲者慰霊碑、偶然従業員が一人地下にいて助かったかつての呉服屋を改装したレストハウス、被爆樹木のアオギリなどを見て、平和祈念資料館へ入った。理不尽にも奪われた一人ひとりのいのち、面影、遺品。残された人々の痛苦、悲惨、絶望。それらが澱のように臓腑に溜まり、ひたすら歩が重くなる。真剣な顔で展示に見入る黒人男性もいた。世界中の政治家は一人も漏らさず、ここを訪れるべきではないか。言葉も枯れ果てる。

 本館の硝子張りの通路からまっすぐに伸びた直線通路が慰霊碑や平和の灯を抜け、川向こうの原爆ドームを目指している風景を見る。この平和記念公園の設計がじつは、「大東亜共栄圏確立ノ雄渾ナル意図ヲ表象スルニ足ル記念営造計画案ヲ求ム」という趣旨の元、1942(昭和17)年の日本建築学会「大東亜建設記念営造計画コンペ」で1等入選した丹下健三の「大東亜道路を主軸としたる記念営造計画–主として大東亜建設忠霊神域計画」が下敷きになっていることを知る人はあまりいないのではないか。

平和記念資料館本館から原爆ドームを臨む

 皇居から富士山に向かって「大東亜道路」と「大東亜鉄道」を走らせ、富士山東麓に「忠霊神域」を建造する。シンメトリック(左右対称)な配置をもつ寝殿造りの神殿は資料館を含む広島ピースセンターであり、直線道路の先にそびえ立つのが霊峰富士に代わった原爆ドームである。

 足が疲れたという母に出口近くのミュージアムショップで休んでいてもらって、記念公園の地下から出土した当時の中島町の住居の遺構(通りや隣家を分ける石の側溝や住居内に残る炭化した畳や板など)を保存展示した被爆遺構展示館、そして長いスロープを下った円形の地下の追悼空間と、亡くなった人の情報を検索できるフロアや体験記閲覧室などが併設された国立広島原爆死没者追悼平和祈念館などを見てきた。

 広島は死者の町である。いまも多くの人骨がどこかに埋もれ、かつて人々が賑わった暮らしの痕跡がわたしたちの足下に眠っている。悲惨な過去は地中にあり、戦中の大東亜の残影はそのまま現在へとつらなっている。わたしたちはどこに立つべきなのか。拠るべき場所はいったいどこにあるだろう?

移植された被爆樹木のアオギリ

 ほんとうは最近、解体を免れて保存が決まった赤煉瓦の旧 広島陸軍被服支廠や海軍墓地があった比治山なども訪ねたかったが、今回は八十寿同行なので仕方ない。83歳の母にしてはすでに、かなり歩いた一日だったのではないか。すでに1時を疾うに回っていたが、もうすこしだけ頑張ってもらおう。広島本通商店街を抜けて、昼食は広島三越B1にて待望のうえのあなごめし。身が締まって、旨さも格別。

あなごめし「並」 2,530円
1922(大正11)年の穴子飯弁当の包み。一枚、頂いた。


三越前からチンチン電車で広島駅へ

 駅で土産物などを買って、夕方4時頃の「のぞみ」に乗った。「こだま」と呉線であれだけ長かったのが、広島ー新大阪間、わずか1時間20分でびっくり。6時半には奈良へ帰り着いて、気がつけばいつものように近所で犬の散歩をしていた。こんなに近いのなら広島、もういちど行きたい。そして、もっとじっくり回りたい。あの町はもっとたくさん吸収すべきものがある。

 妹が心配したような旅先での喧嘩もなく二日間の道中を無事に終えたのは、ひとえにわたしの寛容な精神とたゆまぬ忍耐による。これでわたしに課せられた孝行はすべて完了したと言ってよい。

 最後に、わが家へのお土産はこんな感じで・・


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