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【連載】植松聖に抗う 5

就業一年が経って、昇級試験なるもの有りと。
提出する論文を折角なのでここにも転載する。


〇〇〇〇(※事業所名)で学んだこと


 〇〇〇〇に勤め始めて、というよりは福祉の現場で働き始めてちょうど一年が経ちました。58歳にしてまったくの異業種から転職をしたわたしにとって、一年前は、知的障害者の通所施設も、グループホームでの生活も、それまで覗いたことすらもない未知の世界でした。いまはそれが毎日の「日常」となっています。かつて電車の中などで突然奇声をあげる人を見ると避けたいような気持だったのが、いまでは「ちょっと声をかけてみようかな」という気持ちすら沸いてきます。

 まったく異なる職場で長いこと働いてきたわたしの心が福祉の現場に向かうきっかけになったのは、やはりあの悲惨な津久井やまゆり園の事件でした。のちに「新しい戦前」などと言われるようにもなる、きな臭い社会の予兆をずっと感じてきたわたしは、この国はとうとう喫水線を越えてしまったのだ、と思い強い衝撃を受けました。

 その一方でわたしは、重度の障害者とその家族の「生きる力」をとり戻そうとする試みを撮ったドキュメンタリーの中である施設の園長が、学生時代に出会った一人の重度障害者の強烈な存在感に圧倒され、相手の「こころのふるえ」がこちらの「こころのふるえ」であることに気づいた、といったようなことを話すのを聞き、深い感銘を受けました。

 障害という「差異」によって46人もの命を否定した津久井やまゆり園の事件に抗うことができるのは、わたしたち一人ひとりの「こころのふるえ」しかない、と思ったのです。同時に、じぶんは果たして植松聖になるだろうか、ということも、わたしがじぶん自身に課した課題でもありました。

 この一年間の中でまず、いちばん思い知らされたのは、わたしたちが如何にふだん「ことば」というものに依存しているか。「ことば」によってこの社会を成立させているか、ということでした。

 ある種の人々にとって「ことば」は、分厚い海水を抜けてぼこぼこと浮かびあがってくる泡のようなものに過ぎない。けれども「こころのふるえ」というものは、何も「ことば」に限らない。表情や、仕草や、身体の変調や、声のリズムや、差し出される指先や、ありとあらゆるものがかれらの「別のことば」であるのだけれど、わたしたちの社会はそれをキャッチする術を往々にして持たない。

 就業してはじめの頃、わたしは例えば反響言語(エコラリア)を発する当事者に対して「こちら側のことば」を使ってコミュニケーションを図ろうとして、振り回されました。目の見えない人たちにとっての「文字」のように、わたしはじぶんの「ことば」を過信していたわけです。やがて、「ことば」は「こころのふるえ」を表す無数にあるうちのたったひとつのツールに過ぎないのだ、と気づくようになりました。

「ことば」なんかよりも、黙って横にすわり続けていることのことの方がずっと「こころのふるえ」に近づけるのだということを、かれらから学んだような気がします。植松聖は「ことば」を返さない入所者を刺し殺していったわけですが、かれもまた、わたしたちの社会が孕んでいる「ことばの権力」に搦めとられていたわけです。

 もうひとつ印象的だったのは、もっと直截的で身体的なことです。

 わたしが就業したときは新型コロナウィルスの渦中だったため、食事介助と介助者の食事は別々でした。それが5類移行に伴って、いっしょに食べる従来のスタイルにもどりました。正直に言って、わたしはとても抵抗がありました。口の端から伝い落ちる唾液や食物を目の当たりにし、ときにはそれを拭い、拾ったりしながら食事をすることがとても耐えられない、とすら思ったのです。

 けれども、それらはじきに馴れて「抵抗感」は薄れていきました。要するにふつうの「日常」となっていったわけです。グループホームで当事者の排便の介助をするときも、一年前であれば「そんなことは、とてもできそうにない」と言っていただろうじぶんが、Kさんの便も、じぶんの便も、飼犬のJの便も、所詮はみな等しく生きとし生けるものたちの落し文、とすら思えるようになってきました。そしてそれは、相手との距離と正比例しているような気もします。Kさんの「こころのふるえ」に近づいていくと、不思議なことにかれの身体から仄かに漂ってくる唾液の匂いも、何やら甘い猫の体臭のように思えてくるのです。

 しかしわたしはまだ当然ながら、あの植松聖から自由になったわけでもありません。反響言語を発する当事者に対して、わたしがみずからの「ことばの権力」を行使しようとしたのと同じように、日中の通所施設という集団の活動の中で、時としてわたしは、かれらを従わせたい、従属させたいという気持ちをはからずも抱いてしまっていることがあります。そんなときにわたしのなかで植松聖的なるものがむくむくと立上がってきます。

 じぶんの内なる植松聖に抗うための「こころのふるえ」に近づいていくための学びは、まだまだその端緒についたばかりだという気がしています。









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