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異端審問のイメージが変わった~『スペインのユダヤ人 世界史リブレット59』(関哲行)~

題名通り、「スペインのユダヤ人」の歴史をまとめた本です。


とはいえ、「スペインのユダヤ人」だけではなく、ユダヤ人自体についても、そしてユダヤ人とは直接関係がない部分でも、非常に学びの多い本でした。私は気になった箇所や、メモを取りたい場所には短冊を挟んでおくのですが、全100ページのこの本に、恐らく20枚くらい挟んだと思います。それくらい、発見満載の本でした。


授業に直接使えるネタは、授業用のノートの方に控えたので、ここでは、授業では直接使わないネタではあるものの、ちょっと覚えておきたいことを、備忘録代わりに書いておきます。


スペインを中心に地中海世界に展開したユダヤ人は、セファルディームないしスファラディーム(スペインを意味するヘブライ語スファラドに由来)と呼ばれる一方、ドイツを中心に北部フランス、イギリス、東ヨーロッパ世界に拡散したユダヤ人はアシュケナジーム(ドイツを意味するヘブライ語アシュケナズに由来)と呼称された。近世にはいるとセファルディームの主要居住地は、オスマン帝国を中心とする東地中海世界に、またアシュケナジームのそれはポーランド、リトアニア、ウクライナなどの東ヨーロッパ世界に移動した。人口の面では中近世をつうじ、セファルディームの優位が顕著である。十二世紀にはセファルディームがユダヤ人人口の九十%に達したといわれ、十七世紀までこうしたセファルディームの優位が維持された。今日みられるうようなアシュケナジーム人口の優位は、十八世紀以降の現象である。
外来文化(キリスト教文化、イスラーム文化など)の影響や世俗文化の発展が顕著であったセファルディームは、口伝律法の解釈、異文化への適応という点でもより柔軟であった。

p.10

ディアスポラの結果、ヨーロッパに行ったユダヤ人にも2種類の人々がいるとは知りませんでした。


日常言語として中世のセファルディームは、ロマンス語(中世スペイン語など)とアラビア語を、またアシュケナジームは、イディッシュ語(中高地ドイツ語にスラヴ語、ヘブライ語などを加味したもの)を使用した。しかし主要居住地が移動した近世には、セファルディームはラディーノ語(ロマンス語にアラビア語やトルコ語、ヘブライ語などを取り入れたもの)を主に使用した。

p.11

セファルディームとアシュケナジームで、話す言葉も違ったわけですね。


ナフマニデスは、「イエスの時代から今日まで、世界は不正と暴力に満ち満ちている」と応じ、イエスのメシア性を否定する。イエスがメシアならばイエス後の世界(メシア到来後の世界)が、「不正と暴力に満ちあふれている」はずがないではないか。

p.30

これは強烈な指摘だと思います。ナフマニデスは、29ページの注をそのまま引用すると、「十三世紀スペインのユダヤ人共同体を代表する知識人の一人でラビ」で、上記の言葉は1263年に行われたバルセローナ討論でのものです。


「キリスト教徒は聖書の字句と思いやりのある言葉によって、彼〔ユダヤ人〕をわれらが主イエス・キリストの信仰に導くべきである」(中略)。
暴力による強制改宗は禁止され、特有の印章携行も十四世紀まで実施されなかった。その根底にあるのは、ユダヤ人は説得によっていつの日か真理に目覚め、自発的にキリスト教に改宗するに違いないとする「楽観主義」であった。ユダヤ人への「楽観主義」が消滅し、反ユダヤ運動と強制改宗が猖獗を極めるのは、封建制の危機の時代にあたる十四世紀後半以降である。

p.31

十三世紀後半のカスティーリャ(後のスペインの一部)における、ユダヤ人への寛容に触れた部分です。中世ヨーロッパのカトリック教会のユダヤ人やムスリムへの寛容については、『不寛容論 アメリカが生んだ「共存」の哲学』でも触れていました。


中世末期のヨーロッパ世界では、キリスト教徒民衆を主体とする反ユダヤ運動が大きな高まりをみせ、ドイツにあっても多くの都市でユダヤ人が追放された。十五世紀後半以降、アシュケナジームの大量脱出が始まり、十六世紀前半の宗教改革のなかで、ドイツのユダヤ人共同体は激減した。アシュケナジームの主要居住地はポーランドやリトアニアといった東ヨーロッパ世界に移動し、そこに新たなユダヤ人共同体が再建された。セファルディームもアシュケナジームと同様に、十五世紀後半にスペイン、ポルトガルを追放され、オスマン帝国をはじめとする地中海各地に拡散した。十五世紀後半はヨーロッパ全域のユダヤ人にとって「第二のディアスポラ」の時代であり、スペインのユダヤ人追放もヨーロッパ全域で生じていた広範な追放の一部にすぎなかった。

p.69

時代の変わり目に、ヨーロッパのキリスト教徒は寛容さを失ったわけですね。


異端審問制度についても、この本でずいぶん印象が変わりました。

実際に火刑に処されたコンベルソはそれほど多くはなく、一四八〇年代~一五〇一年のトレードの異端審問所では、約五〇〇人の火刑者のうち、肖像火刑と遺骸火刑者が約三〇〇人、実際の火刑者は約二〇〇人であった。

p.84

コンベルソとは改宗ユダヤ人のことですが、真に改宗していないと見なされたコンベルソが、異端審問にかけられたわけです。もちろん実際に火刑に処された人が200人もいるという事実を軽く考えることは出来ませんが、「異端審問にかけられたら、ほとんどの場合は火刑」というようなイメージは、間違っているわけですね。
そもそも異端審問裁判自体、弁護側主張より検察側主張の方が重視され、公平なものとは言えなかったとはいえ、実際には以下のようなものだったそうです。

異端審問官が訴訟手続きを厳格に遵守しつつ、裁判での証拠と証言にもとづいて判決をくだしたことは重要である。被告への拷問も、証拠や証言がえられない場合に限定されたのであった。異端審問裁判は、当時にあってもっとも客観的な裁判制度の一つであり、無差別にコンベルソを拘束し拷問を加えるとする、異端審問裁判のイメージは「神話」にすぎない。

p.65~66


なお肖像火刑というのは、コンベルソが逃亡した場合で、「欠席裁判のうえで有罪とされ、肖像火刑と財産没収に処せられ」(p.64)たそうです。生きている人で、肖像火刑で済むケースがあったかは分かりません。
そして遺骸火刑といえば、コンスタンツ公会議の結果、死後有罪となったウィクリフが思い浮かびますが、「遺骸火刑の目的は、墓地という『聖なる空間』からの異端者の排除、浄化作用をもつ火による異端者の霊的救済にあった」(p.64)とのこと。ある意味、異端者への恩寵なんですかね。もちろん、生きながらにして浄化されてはかないませんが。


非常に勉強になる1冊でした。ちなみに見出し画像は、コルドバの土産物屋で見かけたTシャツの模様です。3つの宗教を象徴するマークが共存しています。




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