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船に乗って旅立つ 極楽浄土編

「大きな船に乗って天国に行ったんだね」

患者さんが何人も天国へ旅立たれたとき、看護師の間でこんな表現をすることがあります。天国に旅立つときのイメージが西洋風だと、天使や女神さまが空からお迎えにくるといった、アニメ「フランダースの犬」のような表現になるのかもしれません。日本の仏教思想の中では、天からの迎えは迎合図のように蓮や金台にのって、個別にお迎えにくるものでした。いずれの場合も、「船」ではありません。そして、「船」に何人も乗るような表現はありませんでした。では、なぜ人が立て続けになくなったときの迎えの表現が、「船」になったのか。そのルーツを探る記事の2回目です。

前回の記事で、三途の川の「渡り船」が、いつしか天国(極楽浄土)へ行くための船に変容したのではないかと推測をしました。

「船」に乗ることができれば、三途の川を安全に渡れ、天国に行ける

そんなイメージになったのでしょうか。
しかしながら、三途の川を渡った先にあるのは、天国ではないのです。

三途の川の渡り方

前回の記事に引き続き、三途の川を渡り方をもう一度、振り返ってみます。三途の川の渡り方は、文字通り三途(三通り)ありました。
三途の川は、生前の行いによって渡り方が異なります。善人が渡る場合は、宝石で出来た美しい安全な橋を通ります。軽い罪人は、山水瀬と呼ばれる浅瀬を自力で渡り、重い罪人は強深瀬と呼ばれる難所を渡ります。強深瀬は、非常に恐ろしい場所です。荒れ渡る大きな海のような川は、流れが早く、川に足を踏み入れれば、すぐさま体が流され、身は岩に打ちつけられ肉を削がれます。もし力尽きて、川底に沈むと、そこには川底に住まう悪竜の餌食になり、かといって水面に顔を出せば、罪人を待ち構える鬼に矢で射抜かれる…そんな恐ろしい川なのです。そして、重い罪人たちは、この川を渡り切るまで、永遠にこの地獄を繰り返します。

いくら罪人であっても、あまりに救いがない世界です。罪を犯さなければ生きられない人もいたでしょう。しかし、三途の川では有無を言わさず罪の重さで、行き先が決められてしまいます。だからこそ、当時の人々は、せめてもの救いとして、<六文銭を差し出せばだれでも安全に「渡り船」に乗れる>という思想を生み出したのかもしれません。


三途の川を渡った先に待ち受けるもの

三途の川を渡れば、そこは天国が待っていると思いましたが、そうではありません。三途の川の先にあるもの。それは、閻魔大王の審判でした。

閻魔大王とは
インド神話で、正法・光明の神。のち死の神と考えられ、仏教では、冥界 (めいかい) の王、地獄の王として、人間の死後に善悪を裁く者とされる。

出典:デジタル大辞典より

閻魔大王は地獄の王で、人間の死後に善悪を裁く者です。その善悪は生まれた時から死ぬ時までのすべてが閻魔大王の元には記録されており、決して嘘をつくことはできません。
ですから、真の極悪人が、六文銭で渡り船に乗り、安全に三途の川を渡ったとしても、閻魔様には全て見抜かれているわけです。閻魔大王は、私たちの善悪を裁き、私たちを六道輪廻の世界へ導く役割を担っています。

閻魔大王に言い渡される六つの転生先

六道輪廻とは、名前の通り、輪廻(生まれ変わり)する六つの道(世界)を指します。ちなみに、その6つの世界の中に、天国と地獄があります。各世界は、それぞれ、地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人間道・天道の6つ。(https://jpnculture.net/rokudou/参照)
この六道の中の、「天道」がいわゆる「天国」と呼ばれるものです。つまり、閻魔大王の審判の結果、天道行きの切符を渡された者だけが天国に行くことができたのです。

天国に行くことができるのは善人のみ

閻魔大王から善人だと裁かれた人のみが天道(天国)行きの切符をもらうことができます。善人は、天道の世界で天人に生まれ変わります。しかし、この世界でも悩みや苦労は存在し、人間と同じように寿命もあるのです。

あれ?天国にも悩みも苦しみもあって、寿命もある?

私が想像していた天国は、美しいものがあふれ、悩みも苦しみも解き放たれ、幸せなものに包まれてる究極のご褒美を味わえる世界でした。しかし、六道輪廻の中の天国(天道)は、そうではありません。しかも、寿命があるので、再び生まれ変わるということです。ですから、例えば、天国で万が一、殺生をしてしまえば、次の世は地獄道に生まれ変わるかもしれません。

六道輪廻の中の天国(天道)は、輪廻の中の世界。つまり、生まれ変わりを続ける私たちは永遠に、悩みや苦しみから逃れられない運命なのでしょうか。そう考えると、善人として天国に行けたとしても、永遠に不安から解き放たれることはない絶望を抱える事になります。

輪廻から逃れられる世界、それが「極楽浄土」だった

六道輪廻から逃れる唯一の方法は、極楽浄土に行くことです。極楽浄土とは悩みも苦しみもなく楽しみしかない世界。まさに、私が理想とする天国そのものです。

極楽浄土はどんなところかといいますと、
まず土地は「七宝」といって、金、銀、瑠璃(青い宝石)、水晶、
白いつやのある貝、赤い真珠、めのうなどでできています。

そして宝の池があります。
池の四方には水の中から岸に向かって、
金、銀、瑠璃、水晶でできた階段があって、
岸の上には、七宝でできた御殿が建っています。
仏教を聞く道場や講堂もあり、
やはり七宝でできています。

そして宝の樹木がたくさん生えています。

https://true-buddhism.com/teachings/gokuraku/

日本仏教学院さんのHPを参考にさせていただきますと、極楽浄土というところは、本当に美しく穢れなき幸福な場所であることがわかります。美しい建物、美しい樹木、美しい人々、美しい音楽、美しい食べ物…差別も病気も苦しみもない世界。幸せや楽しみの感覚しか得る事がない世界。まさにご褒美の世界です。人間界で、生を全うした後、六道輪廻の世界に行かずに極楽浄土に行くことができれば、私たちは、その世界で仏になり、永遠に生き続けることができるそうです。
永遠に悩みや苦しみが消えない六道輪廻から逃れるためには、極楽浄土に行くしかありません。

どうやったら極楽浄土に行けるの?

極楽浄土へ行くために、私たちは何をすればいいのでしょうか。
日本の仏教の概念は、飛鳥時代に伝来した「大乗仏教」というものが基礎にあります。大乗仏教の思想は阿弥陀如来の、「あらゆるもの(衆生)を救う」というもの。宗派によって多少の違いはありますが、あらゆるものを救い極楽浄土へ行くための方法が教えにあります。
極楽浄土に行くための教えは宗派によって異なりますが、自分自身でできることとしては、
・阿弥陀仏を信じること
・念仏を一生懸命に唱えること
・罪を懺悔すること
・善人であること
・臨終に心を乱さない
といった教えがあります。この教えを見ると、誰でも極楽浄土へ行けるかもしれないと思うかもしれませんが、簡単そうに見えて、難しく、誰でも行けるようで、行けない、なんとも手の届きそうで届かない方法に思えます。

自分自身でできる方法以外には、
現世に残された人たちが故人を想い極楽浄土に行けますようにと願うことだそうです。

極楽浄土に死後、すぐに行くことができなければ、あの世(三途の川)に行くことになります。そして、エンマ大王の裁きを受けますが、その期間が7日ごととなっているそうです。初七日法要、四十九日法要を行う理由がこのためです。極楽浄土に行けますようにという残された人々の願いが、輪廻から私たちを救ってくれるんですね。

極楽浄土からの迎え

極楽浄土行きの切符を手に入れた人は、どんな風にお迎えがくるのでしょうか。実は、極楽浄土へ行く切符にも上・中・下というクラス分けがされています。そのクラスも更に3つずつ細分化され、全部で9つのクラスがあるというのです。そして、そのクラスによって、お迎えにくる人も、乗り物も変わるとのこと。

迎えの乗り物はいくつかあり、美しい宝石で作られた宮殿や、金剛台、蓮華のつぼみのような形の紫金台、御輿のような乗り物になる金蓮華台、蓮華台、金蓮華などで、残念ながら、「船」らしきものはありませんでした。そして、お迎えは一人ずつ。何人も乗れる乗り合いの船らしきものはなかったのです。
しかし、水に浮くという点においては、蓮の葉なども、船と呼んでもいいのかもしれません。


極楽浄土行きの乗り物が船である理由

極楽浄土へ行くための乗り合いの船についての記述を、今回も見つけることができませんでした。しかしながら、六道輪廻や極楽浄土へ行くための方法などを調べていくうちに、ある答えにたどり着きました。

「あらゆるもの(衆生)を救う」=病院である

阿弥陀如来のあらゆるものを救うという本願が、極楽浄土を作られたといいます。あらゆるものを救うという点で、病院という場所も同じなのだと私は思いました。身分に関わらず、善人も罪人もすべての命を救う義務が、医療者にはあります。

私たちは、病院に入院される患者さんの過去は知りません。病歴や家族歴は知っていたとしても、過去にどんな行いをしたのか、どんな善行・悪行を成したのかも知りません。
黒ずくめのスーツの子分が毎日、付き添っていたとしても、その人がどんな過去か知りません。全身入れ墨の人でも、警察官が手錠をつけて24時間見張っていても、その人が悪人だからという理由で治療を拒否したりしません。
その人の身体を見て、病を治療し、少しでも症状が緩和するための努力を医師も看護師も看護補助者も理学療養士も作業療養士も言語療養士も薬剤師も栄養士も、みんながします。その人の「楽」のために、その人の「幸福=健康」のために、その人の「苦しみ」と取り除くために尽力します。

だから、私たちは患者さんが亡くなる時、地獄に行けばいいと思う人はいません。

患者の過去を知らない、善も悪も知らない。私たちが見て来たのは、病に苦しみ闘病してきた姿だけです。だから、死後は救われて欲しい。苦しみも悲しみも悩みもない世界で、楽になってほしいと思います。それが天国であり極楽浄土だったのです。

「みんなが極楽浄土に行ってほしい」という思想が、自然に定着しているからこそ、「大きな船に乗って天国に行ったんだね」という言葉になったのかもしれません。

というわけで、「大きな船で迎えに来る」という表現は、病院が「あらゆるものを救う」場所だからこそ、生まれた言葉だった。
という結論に至りました。


長い記事になってしまいましたが、読んでいただきありがとうございました。





最期に宣伝になりますが、こういった本を書いています。

天国へ旅立った方から学んだこと、愛され高齢者の方々から学んだ生き方についても書いています。ご興味あれば読んでいただけれると嬉しいです。

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