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混乱と違和感

違和感と混乱
帰国して、早6ヶ月。
まだ6ヶ月しか経っていないらしい。驚きだ。
色んなことがありすぎて、途方も無い時間が流れたように感じる。

ドイツから帰国してたくさんの違和感と混乱が今もなお押し寄せている。
違和感、混乱、疑問、別にネガティブなものじゃ無い。日本に怒ったりや悲しんだりするわけではなく、ただ差異を感じて、触れて、確かめて記録するという行為である。
でも、それは第2のカルチャーショックであり、自分の価値観が壊れて、何か大切だったものに粗を見つけてしまったり、もう好きではなくなってしまったりする。でも、それは私とは切り離せ無いものなのである。反抗期みたいなものなのかもしれない。
成人して6年も経って、たった1年の間に自分の嗜好が変わるとは思ってなかった。
好きな建築がかわり、ものへの執着がなくなって、洋服もシンプルなものをルーティーンに着こなすのが好きになった。誰かからの評価よりも、ますます自分の価値があるものを大切にしたいと思うようになった。英語と母国語しか話せないことを恥ずかしいと思うようになった。母国語のように自分の感情や思考を時に詩的に、時に明確に微細な表現を外国語でできるようになりたいと思った。自分が相当特殊な国の出身だと気づいた。この複雑な言葉を操る、ミステリアスな島国出身であることを初めて肯定的に捉えらえるようになった。こうなりたいと思う自分が変わった。日本の当たり前をクリアすることに満足している自分が恥ずかしくなったし、突きつけられた自分の欠点を改善するために努力をして何歳になっても、おばあさんになっても成長したいと思うようになった。

物心をついてからは初めて自分の母国以外の土地に1年間暮らし、初めて自分の出身の国、自身のアイデンティティを相対化できたのだと思う。

ドイツに行くまでは、私は日本が島国である、ということすらもあまりピンと来ていなかった。私が住む場所からは海を目をすることもなかった。

でも陸の国ドイツに住んでみると、魚を食べるという文化はあまりなく、巨大なスーパーの魚のコーナーも食卓のテーブルくらい小さかった。(ノルウェーサーモン、ありがとう)
日本に住んでいれば、直接目にすることはなくてもどこでも魚がたくさん売っていて、季節によって採れる魚が違って、様々な調理方法がある。ある一定の距離で海に接している、島に住んでいたのだ。

だから、ヴェニスやトリエステ、コペンハーゲンやヘルシンキ、テルアビブに行って見た海をみると、とても懐かしくなったし、この海が自分の住む国と繋がっている、と思うと元気になることを知った。

その海は私の知っている海とは違ったし、そこに落ちる日の強さも、飛んでいく鳥も日本のものとは違った。でも、とても美しかった。

例えば、海に浮かぶ雲の形は陸に浮かぶ雲とは違う。日本の雲は海に浮かぶ雲だった。コペンハーゲンのベレビュービーチで気づいた。海からの湿気の違いで雲の形は変わる。

日本に帰ってきて、成田空港からの電車の中の曇り空と里山の風景を見て、浮世絵の世界だと思った。緑と青の色の山が幾つかのグラデーションで連なっていく風景は、日本画のそれだった。
曇りの日なのにこんなに明るいということにも驚いた。太陽との距離が近いと思った。

四季がきちんと3ヶ月ずつある領域は、地球上でどれほどあるのだろうか。
春と秋がこんなに安定して続いていく場所に、春にはどこにでも植えられている桜が満開になっていて、秋には木々が一斉に色づいていく。

夏はありえ無いくらい暑い、でも私たちがどこかで持っている青春の日々のむせかえるような暑さの中に広がる夏空や、新生活の節目に迎える桜並木の風景なんて日本人にしか共有ができない。

1つずつ確かめて輪郭をたどるという行為を少しずつやっている。忘れ無いように1つずつ書き留めておく。

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2年前の3月のテキスト。
留学から帰って半年、就活と修士制作などなどすごい勢いで駆け抜け、私が本当に帰国と安堵感を感じたのは修士制作の最後の発表を終えたあとだった。私がやりたいのはこれじゃないと泣きながらも準備してた就活、不合格通知をもらってホッとした日、終わったあとの灰みたいな1週間、同級生のほぼいない卒業式、幽霊や透明人間みたいな気持ちで新生活のキラキラした人が溢れる街を歩く3月、一人だけ進路が決まっていないけれど、本当に自分のやりたいことをやろうと決めて、まっさらなスタートが気持ちよかった。
そして1年後、私はベルリンに戻ってきた。そしてまた1年が経とうとしていく。

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