見出し画像

原子レベルで考えたら。

昨年、これはわたしの人生にとってプラスだという習慣を2つ、つくることができた。

一つは歯のフロス、もう一つはヨガ。

2018年1月に通い始めて、月に1度か2度のゆるい(ゆるすぎる)頻度で通っている。

ヨガの先生がレッスンの途中に言っていたのだ。「人は大きな肉の塊だからね。お肉を焼くときも外からじわーっとやるでしょ。ストレッチやヨガもそれと一緒。すぐに火を通そうと思ってもダメなの」

先生曰く、だから手足の指先や頭のてっぺんからほぐしていくのだそう。痛みを感じるのが腰や肩だとしても、直接そこを刺激しても無駄、だってわたしたちは大きな肉の塊だから。

ヨガをしながら、わたしもあの人も大きな肉の塊だわ、って考えていたら。

「肉の塊なのにいろいろ考えて、よく頑張って生きてるよな」って思えたし、悲しいことがあっても「肉の塊同士のたわいもない、皿の上のじゃれあい」みたいな気がしたし。これは便利だなと。

肉の塊理論の他にもう一つ、便利な理論が「原子レベルでは私とあなたに境目はない」です。

自分のこどもとは親子で家族ですが、自分以外の別の人間であることには変わりないですから。まあお互いにイラっとしてカンカンでプンプン、みたいな状況もあります。

そんな状況になったとき、写真をどんどん拡大していくみたいに、沸点こえてる私たちを細かく細かくしてみたら、モザイクみたいなポツポツがたくさんあるだけの世界にたどり着く。

そこにはこどもとわたしの境界線はない、同じ一枚の絵にモザイクみたいに描かれ、怒りや悲しみとかプライドみたいなめんどくさい感情も全部一枚の絵の中。だれの感情か、は関係のない絵の中です。

ただ悲しみの色、怒りの色がある。それだけ。

でもその世界には、あったかい手の温度も、つるんとしたほっぺの手触りも、そういうものはなにもない。だって境界線がないのだから。

そうして、イメージの中でモザイクの世界と今を行ったり来たりしているうちに、ああ、あったかさも悲しみも感じられる世界の方がやっぱり好きかもしれない、と思えて。

そうこうしていると、私の部屋のドアの下の隙間から、つたない字で「ごめんね なかなおりしよう」って書いた手紙がしゅーっと滑ってきて。我が家の喧嘩はおわるのです。




サポートいただいたら、だれかをサポートしてバトンパスします。