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食べることについて考える1週間

さて断食を開始してから1週間。
正確には断食していたと言えるのは丸5日間で
6日目には仕事で出かけたカフェでコーヒーの代わりにクラムチャウダースープを注文し、
友達の店でフムスをテイクアウトして家で少しつまんだ。
自宅ではコーヒーをハンドドリップし、なんだか癖になってしまった特製生姜レモンウコンジュースを飲んだ。

断食はもう終わりだなと思った6日目になって、意外なことに
全身に痺れを感じた。
今まで感じたことのないような痺れ感で、体の表面だけにじわじわと薄く広がるような痺れだった。最初は太ももや膝周りの表面の痺れから始まり、それが腕の痺れにも広がった。
これは一体なんだろうかと思いひとまず、非常用に持ち歩いていた塩飴を2個続けてゆっくりと舐める。
よる寝る前までには痺れは少し弱くなったものの、完全に痺れがなくなることはなかった。

7日目、と呼んでいいかわからないが、ともかく断食を開始した日から数えて7日目、痺れは消えていた。
あれはなんだったのだろう。

朝起きてハーブティーをゆっくり飲む。
食べ物を用意せねば、食べねば、片付けねば、
という慌ただしさから解放されているので、本当に心地よい。
改めて自分がいかに食べることで磨耗されてきたかを感じる。

「食べていくために食べないの」
これはとあるスーパーモデルが厳しいダイエットに苦しみながら世界トップレベルのショーに出続けている際に残したコメントと言われているのだが、
私は苦しむこともなく、けれどこの言葉の通り「食べていくために食べない」というのを、効率と快適重視で選択することになった。

苦しいということは、必要な何かが足りていないということであり、
別になんともないということは、概ね足りていますよということな気がしている。

社会に食べさせ続けられてきた私たちは、足りているのか足りていないのかの判断が鈍り、本当は十分なのに常に飢餓感を持たせられているのかもしれない。
それが資本主義というものなのだろうか。

昨日の夜、鎌倉の鳩サブレーで有名な豊島屋さんが運営するパン部門のお店「扉」で買ってきたパンをリベイクして昼前に食べてみる。
美味しいが1個丸ごとは一度に食べるのは多いなと思うので、半分にして、残りは後のお楽しみにとっておく。

ちなみにあまり知られていないのだが、「扉」店のパン部門は閉店時間間際になると、パンがなんと40%オフになる(バゲット類や食パン類など割引対象外もある)。
いつだったか、閉店間際の店内にやたらお客さんがたくさんいるのを遠くからガラス越しに見かけ、なんだろうと思って覗いてみれば、そういうことだったのだ。
帰りがけのローカルたちは、知っていたという話。
毎日その食品ロス防止セールをやっているのか、何時くらいからやっているのかなどは定かではないが、偶然そのタイミングでお店の前を通りかかることがあれば、私もたまに立ち寄っている。セールじゃない時でも、さすが鳩サブレーのお店なだけあって確実に美味しい。鎌倉界隈でクロワッサンやバゲット、カンパーニュの美味しいものが欲しいなと思う時は豊島屋さんも選択肢に入ってくる。


しかしそれにしても、これから断食をしてみたいと思っている人にとっては、あまり参考にならない断食記録を展開したなと思う。
だが仕方がない。私がやりたかったのは、自分への疑問「食べることとは、私にとって何なのか」という問いに答えを見つけることであり、その過程を正直に記録してみようと思った結果だった。

断食の前後は通常は準備食と言われる、断食に体を慣らしていくための2日間くらいの緩やかな食事制限期間があり、そして断食終了後には回復食と呼ばれるこれまた通常の食事に戻していくための期間が2日間くらいあるものらしい。

私の場合は、ある夜に閃いて翌日から断食を始めてしまったし、
回復食に至ってはもしかしたら消化に優しそうなものから食べ始めるなどの配慮くらいはしても良かったかもしれないが、そもそも通常(断食前)の食生活に戻る気はさらさら無いため、回復も何もないだろうと乱暴に切り捨ててしまっていた。
ひとまず、ちょっとフムスとパンを食べたら胃がびっくりしてお腹が痛いような気もしないでもないが、おおむね問題はない。

何かをどうしても積極的に食べたいという気分にもならないし、大好きだったクッキーなおどのお菓子も欲しいとは思わなくなった。

たった5日間の断食で人の嗜好がこれほど変わるのかと正直驚いている。
プチ断食と呼ばれる時間制限でコントロールするタイプのものや、ジュースクレンズなどでは、このような気分になったことはなかった。不思議なものである。

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