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ルシャナの仏国土 警察学校編 10-12


十.通り雨


 ソフィアは夕飯を食べに商店街へ出かけた。
 警察学校の開講までまだしばらくあったが、そういつまでも宮殿のゲストルームに居続けるのも不自然なので、とりあえず週決めの宿に移ったのだ。宿でも朝夕の食事は出してくれるのだが、時折は夕方や宵の街にも出てみなければ、人材は見つけられない。

 と、今まで晴れていた空が、一天にわかにかき曇って雨が降り出し、雷鳴が轟いた。
 人々は慌てて屋根のある場所に走って行く。ソフィアも駆けだした、そのときだった。一頭の馬が彼女や他の人々のところへ走ってくるのがちらっと見えた。
「あぶないっ!」
 黒い影が彼女の腕を強く引き、その勢いで彼女は斜め後方の地面に転がった。というよりも、その何者かがわざと彼女を転がして、馬の進路から外してくれたように思われた。
 黒い影はそのまま馬の背に飛び乗ると、どうどうと馬を静めて、人々がいる直前で馬を止まらせた。

 一瞬の後、人々の間から拍手が湧き起こった。ソフィアも立ち上がってその人物を見ると、二十代後半くらいの若い女性である。
「助けてくださって、どうもありがとうございました。」
 ソフィアは礼を言った。
「いえ、咄嗟のことで・・・。大変ご無礼申し上げました。どうかお許しください。どこもお怪我はされてませんか。」
「え?」
 ソフィアは一瞬考えた。ご無礼とはどういうことか。もしかしたらこの人は私の素性を知っているのではあるまいか。そして、あの身のこなし、ただ者ではない・・・。
「あの・・・私、ソフィア・レイジェスと申します。よかったら、お礼にお夕飯ご一緒してくださいませんか。」
 相手は少し考え込んだ様子だったが、お断りするのもまたご無礼だからと承知した。

 彼女は和菓子屋でアルバイトをしているということで、ソフィアはその仕事が終わるまで喫茶店で待っていた。
 彼女は時間通りにやって来た。半ば息を弾ませている。
「あら、走ってらっしゃったのですか?」
「お待たせしてはと存じまして。」
「あの・・・あなたは私にとって命の恩人です。それなのにどうして幾度もご無礼という言葉を私にお使いになりますの?」
 彼女は「あ」という顔をして、ソフィアを見た。
「やはり言葉に出てしまうものですね。・・・申し遅れました。今井はるかと申します。実は私は忍びの者でございます。私どもは高貴な方々のご尊顔をすべて存じ上げております。姫様のことも、しばらく前から気が付き、それとなく拝見しておりましたところ、先ほどのことが起こりました。」
「そうでしたか。やはり私のことをご存知だったのですね。改めてお礼を言います。」
「勿体のうございます。それに、どうかそのような丁寧語はおやめくださいますよう。・・・それから、先ほどの馬は、雷鳴に驚いて暴走したのだそうです。あとから馬車屋が商店街を謝って回っておりました。」
「なるほど、あの馬はそれで・・・。何にしても、被害がなくてよかった。あなたのおかげです。ところで、あれは合気道?」
「はい。左様でございます。」
 良い腕前をしている。もしかしたら、この人も良い警察官になるかもしれない。

「解散令のことは知っています。貴女も町に出て来られたのですね。」
「はい。数年前の解散令で、忍びの者たちはすべての立場を解かれ、一般市民となりました。私もそうなりましたが、先祖たる忍びたちが行ってきた殺戮の歴史の償いに、今度は人を救っていきたいと思っています。だからお金を貯めて、薬科大学に入ろうかと。」
「そうですか。でも、もしお金を貯めなくても人を救える職業になれるとしたら、他の職業でも構いませんか?」
「え?」
「実は、私が今ここにいるのは、最高の警察学校の指導官や訓練生を見つけるめなの。そこでは、実技訓練に忍びの技も教える予定で、貴女は講師兼訓練生として適任だと思うのです。
 でも、そうはいっても、あなたたちならすぐに察しがついてしまうかもしれないわね。私にはもうひとつ別の目的があります。私は短期間で自分の後継者を育てなければなりません。あくまでも秘密裏にね。」
「そうだったのですか。」
 はるかも、ライランカのファイーナ皇女が余命宣告を受けていることは耳にしていた。つまり皇女が言う『後継者』とは、ライランカの次期皇帝のことなのだ。
「警察官も人を救える職業よ。それに、さっきの合気道も含めて、あなたの技は薬剤師で埋もれさせて良いものではないと思うの。どうかしら?あ、これはあくまでも提案です。もしよかったら、十月七日の朝十時にアイユーブ警察学校の前に来てください。」
「わかりました。考えさせていただきます。」

 食事を終えて、帰り際にソフィアはふと思い出して言った。
「そうそう、忍びだった人がもう一人いるの。正式な名前はもう一般市民だけど、たしか昔は楓とか。」
 はるかの顔色が変わった。
(楓が?!楓に会えるのか!)

 あれはもう十年近く前になる。
 ある日、はるか達が住む忍びの里全域に皇帝から集合命令がかかった。
「皆の者、これから私の言うことをよく聞いて欲しい。・・・今日ただ今より皆の『忍び』の身分をすべて解き、改めて戸籍を作成して一般市民とする。その上で、各々好きな職業に就いて欲しい。
 先祖代々、これまでの務めはさぞ辛かったことであろう。皇帝として、為政者として、今日まで君たちをその苦しみから解放することができなかったこと、心から詫びる。」
 紫政帝は数分間にわたって深く頭を下げた。人々の間にどよめきが起こった。
 桔梗も、幼なじみの楓と顔を見合わせた。本当に・・・?しかし、皇帝自らがあのように深々と頭を下げている。嘘偽りではあるまい。

 その数日後、いくつかあった村は解体され、人々も思い思いに散っていった。あの日から桔梗と楓はお互いに居場所がわからなくなったままなのだ。

一一.手のひら


 その日、ソフィアと篤史は、アイユーブ警察学校の正門前にいた。
 開講まであと半月の今日から、二人はここに住み込んで、篤史と入れ替わりになる校長や、事務方をはじめとする職員たちと打ち合わせや仕事の引き継ぎを行うのである。
 校長はルカイル・アフマド・ハッサンという、当地出身の女性警視正である。少し日に焼けた、小柄で少しだけふくよかな容姿は、会う者に安心感を抱かせる。
 そもそもアイユーブ警察学校があの計画の場になったのは、七〇歳になる彼女が体力の衰えを理由に退官を願い出たタイミングと計画開始とがたまたま一致したからなのだが、その瞳はまだ輝きを湛えていた。

「加賀警視正、お久しぶりです。こちらは副校長になられる・・・?」
「ご無沙汰しておりました、ルカイル警視正。こちらはソフィア・レイジェス警視。」
「ソフィア・レイジェスです。」
「ライランカの方ね。よろしく。お二人がいらっしゃる頃を見計らって、みんなに集まってもらっています。講堂のほうへどうぞ。」
 ルカイルは手を差し出した。七〇歳になる彼女の手は柔らかく温かかった。そして何故か一点の光のようなものが感じられるのだった。
 ソフィアはふと亡き母を思った。お母さまも温かい手をしていたっけ・・・。

 ソフィア――ファイーナ皇女――の母・カナリア妃は、小柄で細い体つきをしていたが、誰の子でもまるで自分の子のように親しく話しかけたり叱ったりしたので、宮殿職員からも一般市民からもとても慕われていた。
 その母は、ファイーナが十歳の時に心臓発作で突然この世を去った。葬儀の日、父は冷たくなった妻と泣きじゃくる娘を抱きしめて共に泣いた。
「カナリア、お別れになるんだね。・・・人の命は本当に儚いものだ。少しでも何かバランスが崩れると死んでしまう・・・。だが、その儚さの故に人は誰もが美しく、尊い。ファイーナ、おまえの母も優しい人だった、美しかった、そのことは決して忘れるな。」

 ルカイル、篤史、ソフィアの順に講堂に入ると、多くの視線とかすかなざわめきが感じられた。
「みんな、こちらが後任の加賀警視正とソフィア警視です。私と同様にどうか助けてあげてくださいね。加賀警視正とは旧知の間柄だけれど、公明正大で優しい方よ。それでは加賀警視正、どうぞ。」
 篤史が進み出た。
「初めまして、職員の諸君。加賀篤史と言います。今回、縁があってこの学校の校長を務めることになりました。これまでもそうであったように、これからも警察官の役割は大きくなっていくでしょう。だからこの学校を、その礎を築く存在にしていきましょう。そしてそのためには皆さんの力が必要なのです。どうかよろしくお願いいたします。」
 続いてソフィアが紹介された。
「皆さん、こんにちは。ソフィア・レイジェスです。私は、ご覧の通りライランカから来た者で、もともとは法律家です。同じ法を守る者として共通するところは多いと思いますが、警察官としての実務は経験していません。この学校でいろいろ学ばせていただけれはと思います。」

 それから、ルカイルは校内を案内してくれた。校長室、会議室、経理課、調理場と食堂、教室、武道の稽古場、男子寮と女子寮など、いずれも掃除と整理整頓がよく行き届いている。
「生活の乱れは心の乱れです。心が乱れると事故やミスが起こりやすくなります。私は長年そういう指導をしてきました。お二方にもそれはぜひ受け継いでほしいと思います。幸いにして、この地域には一日三回の礼拝が根付いています。礼拝は神との対話をするだけではなく、心の時間を取り戻してくれるものですから。」
「たしかにそうですね。ルカイル警視正のお考えに賛同します。」篤史が応えた。

 ルカイル警視正はこれまで温かい包容力と厳しさの両輪でこの学校を率いてきたのだ、とソフィアは思った。
 気がつくと、警察学校の空に夕焼けが広がっていた。

一二.希望


 二日後、ソフィアが新しく設けられた副校長室で資料を並べていると、事務係のアブドフがドアをノックして入ってきた。
「ソフィア警視、ご面会の方がいらっしゃってます。今井はるかさんという方です。」
「あ、彼女ね。わかりました。お通ししてください。」
 総招集の日まではまだ日があるが、講師を引き受けてくれるのだろうか、それとも断られるのだろうか。

「姫様にはご機嫌麗しゅう存じます。」
 はるかはまず跪いて礼をした。
「はるかさん、来てくださったのは嬉しいけど、ここでは私は王族ではありません。どうぞ普通になさって。ソフィア警視と呼んでください。」
 ソフィアは親しげに微笑んだ。
 (あぁ、この方も女将さんみたいにお優しいんだ。)
 はるかは思った。それまで務めていた和菓子屋の女将もよくしてくれたが、彼女の微笑みと同じなのだ。

 和菓子屋に入るとき、はるかは自分が忍びの者で解放されて街に出てきたことを和菓子屋夫婦に伝えた。こんな私でいいのでしょうかと。
 大将は言った。
「これまではこれまで、本当に大切なのは、これからさ。それにあんたは綺麗な目をしている。惚れそうなくらいな。」
「あんた!」
 女将がたしなめた。
「あ、いやいや、手を出すとかそんなんじゃねーよ。ただ、この人にはハキハキしたものを感じるんだよ。」
「それはあたしも思うね。人助けしたいって人だもの。数年でもいい、あたしたちも雇ってあげよういじゃないか。それにこの人はきっと何でもできるよ。」
 それから数年、はるかは夫婦が見込んだとおりに何でも器用にこなした。接客、材料や商品の運搬、掃除、テキパキと動くその姿は店に清々しい風を吹かせ続けた。

 あの日、警察学校のことを女将に話すと、そりゃぜひお引き受けしなさいよ、あんたを失うのは嫌だけど、うちはまたなんとかするから。と言ってくれた。
「さっきからみんな、あんたが暴れ馬を静めたって話で持ちきりだよ。和菓子屋に置いとくにゃ惜しいってさ。あぁ、あんたが制服着た姿を想像すると、なんだかわくわくするねぇ。卒業したら、一度は凜とした制服姿を見せに来ておくれよ。」
「はい、ぜひ。」
 女将はしばらく彼女を抱きしめていたが、やがて名残惜しそうに手を離した。

「それでは、ソフィア警視とお呼びいたします。講師のお話、お引き受けします。和菓子屋は快く承諾してくれましたゆえ。」
「ありがとう。よろしくお願いします。そうそう、楓さん・・・今は春野亜矢さんというのだけれど、貴女のことを話したら、なんと幼なじみだというじゃないの。もちろん今すぐにでも会いたいわよね。」
「はい。」
「それでは行きましょう。」

 二人は女子寮のある部屋の前まで来た。
「それじゃ、私はここまで。あなたのお部屋は右の五号室にしましょう。夕食は六時半、あとは亜矢さんから聞いて。」
「どうもありがとうございます。」

 はるかはドアをノックした。はい、という声が聞こえた。聞き覚えのある、懐かしい声に違いなかった。
 扉が開いて、ショートカットの女性が立っていた。
「楓・・・か・・・?」
「桔梗?桔梗だよね?」
 二人はしばらく立ちすくんだ後、どちらからともなく抱き合った。生きて会えるなんて・・・二人ともそう思っていることは互いにわかる。

「私はあれからあちこちで働いて、お金を貯めて薬科大に入ろうとしていたんだ。それが先祖代々の罪滅ぼしだと思ってね。でも、ソフィア警視と出会って、ここに来た。その時に、お主もいるとは聞いたのだが、本当に会えるとはな。」
「そうだったのか。私は人探しをするために戸籍係になった。役所で事情を説明したら、それが紫政帝陛下のお耳に入ったとかで戸籍係に採用して下さったんだ。」
「人探し?誰を探しているんだ?」
「隼を覚えているか?」
「隼・・・。覚えているぞ。そうか、そうだったのか。しかし何故離れ離れになったのだ。」
「解散令が出ることはあの日まで長老たちにしか知らされていなかった。隼は、そのときたまたまどこかに諜報活動に行っていたのだ。己が使命は親兄弟にも漏らすなかれ・・・ましてや許嫁にもな。
 村長むらおさは、彼も呼び返そうとしてくれたらしいのだが、その時にはすでに連絡が取れなくなっていた。」
「そうだったのか・・・。」
 自分は人を恋したことはないが、この友の心中を推し量ることはできる。
「そして、数ヶ月前、陛下からこう言われた。こんなに長い時間をかけても手がかりが掴めないということは、もしかしたらほかの大陸にいるのかもしれぬ。もはやこちらから探しに出向くしかあるまい。今度、従来の型を逸脱するような警察学校のカリキュラムを創る。警察官の殉職を減らすためだ。そこで警察官になって、海洋警察官として探して回る気はないか。もちろんそのあいだも戸籍係には言い置いておくが、と。」
「なるほど、海洋警察なら世界を回れるな。」
「それにしても、ここでお主に会えるとは思わなかったぞ。しかも、ファイーナ様がソフィア警視などと名乗っておられるのだからな。驚くことが多い。」
「姫様は、短期間で後継者を育てるとおっしゃった。紫政帝陛下にしても、殉職する警察官を減らしたいというご意向がある。一石二鳥ということだ。それに加えて、お主の幸せか。ここには一体いくつの希望や目的が込められているのだろうな。」

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