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私がnoteに「〇〇人の」と書かない理由

急遽、とある友人のブログ記事に影響されて、このnoteを書いている。


ずっと書こうかどうか悩んでいて、でもこのタイミングなら発していいかもしれない…と思って書くことにした。

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私がフィンランドにいるときの出来事だ。


私は子ども相手のボランティアをしていた。

小学生くらいの子だった。

その子は私の顔を見るなり言った。

「君日本人でしょ。目が細いからすぐわかったんだ」

多分そのあと、その子は自分の目の端を引っ張って釣り目にするしぐさもした。

まだ小学生、いいことと悪いことの分別がついていないのかもしれない…誰かが真似しているのを面白がってやっているだけかも…などと自分に何度も言い聞かせようとした。しかしそれとは相反して、鼓動がどくどくどくどく…と速くなって、自分の全身の血流が逆流するのを感じた。

なるべく怒鳴らないように、諭すようにその子に伝えた。

「それは人種差別です。人を見た目で判断してはいけない」

声が震えた。

内心かんかんで、はらわた煮えくりかえっていた。


その子はぽかんとしていた。

(おそらく私の言い方がその子にとっては難解だったのだと思う。あとで周りにいた大人に私が言ったことを説明してもらっていた。ようだった。)


帰り道、私の脳内では一人審議会が行われていた。

「私より一回り以上は年の離れた子の言ったことじゃない。ちゃんと叱ったんだから気にしなくていいじゃん」そう思う一方で、それでも、やっぱり、はらわたが煮えくり返るのを抑えられなかった。

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またこれもフィンランドにいた時、道端を一人でぼんやり歩いていたら10代くらいの若者集団に何やら怒鳴られ、げらげら笑われたこともあった。


怖かった。


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差別された経験、その恐怖や怒りをもってしても、私も他人を差別していると思う。無意識のうちに。何の気なしに。


それでもなるべく自分自身やまりフィンの読者の方の『無意識の差別意識』を助長しないために、このnote(マガジン・『ユバスキュラって読めない!』に収録されたもの)では友人のことを「〇〇(国籍)人の友人」と書かないようにしている。

そのためか、私の文章はいつもたくさんの「匿名の知人友人A」たちがいるように見える。誰が何をしたかわかりにくい時もあるかもしれない。


それでも、私は「○○人の友人」とは書かないようにしている。

個人情報を特定されないように…という理由もあるが、一番はまりフィンの読者の方に、私が説明したい人の人となりや行動だけを見つめてほしいと思っているからだ。

私は私の友人たちを誇りに思っている。彼ら・彼女らのやってきたことを誇りに思っている。それを、「○○人の」という説明を付することでまりフィンの読者の方に「やっぱり○○人はちがうな」とか「私は○○人に対してこんなイメージがあったけど、意外だったな」みたいな安易なまとめ方をされたくなかった。


「○○人の」を付け加える時はよっぽどその必要に迫られたときだ。

例えば「日本人の交換留学生たちが、コロナ禍の影響でほぼ全員日本に帰国せざるを得なくなった。悔しい。彼らの中には大変な思いをして奨学金をゲットした人もいるのに。」みたいな文言のことを話すとき。これは『日本人の』という説明がないと、私がどのような状況に対して悔しい思いをしたか説明しにくいし、肝心の「私が寄り添いたいと思っている相手」に響きにくい、曖昧な文章になってしまう。

あるいは、友人たちがしてくれる自国の文化や政治的情勢の説明をこちらに引用するうえで、やむを得ずその友人の出身国を書かざるを得ない時もある。

またあるいは、「フィンランド人に私のフィン語を校正してもらった」というような状況の時だ。だがこれも厳密には「フィンランド語を母語とする人」と示すべきだ。なぜなら、フィンランド人(ここではフィンランド国籍所持者)の中にはフィンランド語を母語としない人もいるからだ(例えば、フィンランド国外で生まれ育った人たちやスウェーデン語を母語とする人たち)。だがこれに関してはもう、読者の良識にお任せしている。きっとまりフィンの賢い読者のみなさんは「フィンランド人(フィンランド国籍保持者)は全員フィンランド語が堪能(であるべき)」という思い込みがないと信じて。

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「○○人の」という説明を、自分のnote(や、その前身のフェイスブックページの投稿)から排するようになって2年近くたった。

未だに、「○○人の」以外の言葉で他人を説明するのに手こずることがある。そしてそのたびに、私はその人の人となりじゃなくて「○○人」という記号としてその人をとらえているのかと知りぞっとする。

でも、こういう泥臭い鍛錬をこつこつと積み上げていくことでしか、自分自身の「無意識の差別意識」に気づけない。

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私のnoteは別にバズったりしないし多くの人に読まれている…というわけでもない。

それでも、世間一般にはびこる『無意識の差別意識』とは、小さなメディア媒体やSNS等の小さな投稿の積み重ねで強化されていくのではないか、という気もしている。誰かの発した何気ないツイートが差別表現をはらんでいるとき、それはたとえ小さな文言であったとしても人を傷つける。『所詮は一般人の発言だし』と軽々しく吐いた差別発言が積み重なって、TLやニュースフィードを覆いつくし、大きな暴力となる。


こんな小さなちいさな記事でも、私は自分や他人の『無意識の差別意識』を助長したくない。これからも自分を省みつつ、責任をもって文章を発したい。

しかしそれでも完璧にはいかない時もある。その時はどうか、コメント欄等でそっとご教示願いたい。

#blackouttuesday




そんな、皆様からサポートをいただけるような文章は一つも書いておりませんでして…