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毛布#2 『聴こえてくるもの』

手に触れた誰かの体温で自分の体温を知ることがあるように、誰かの眼差しや声に触れて、自分の輪郭を感じることがある。

自分の名前で作品発表を始めるようになって、一番最初に出展したのはデザインフェスタだった。その時はまだ詩集もなくて、トートバッグや紙雑貨を中心にした1日だけの出展の帰り道、国際展示場駅のエスカレーターを降りて行くと、ホームに名刺が落ちていた。

どんどん近づいてくるその名刺を見ていると、どこかでみたことがあるどころではなく、さっきまで散々配っていた私の名刺兼ショップカードだった。

スローモーションみたいに見えたその瞬間を今でも覚えている。
犬の絵と手書きの文字がのった2色刷りの名刺。
落とされて踏まれて少し汚れたその名刺を見た時、不思議なことだけど、この瞬間私はこの世に存在しているのだ、とはっきりと思ったのだった。

そういうことを数年経ってふたたび感じることになった、文学フリマ東京出展が終わった。

私は文フリに参加するのは今回が2回目で、本格的な出展は今回がはじめてだった。この3年間くらい、いろんなイベントに出展してきたけれど、文フリは本当に心地よいあたたかさがあるイベントだと思う。開場を告げるアナウンスに自然に大きな拍手がわき起こる。とにかく楽しい時間が始まるのだ、という感覚がフロアーにあった。昔参加したマラソン大会で、始まる瞬間に行列から自然発生的に拍手が起こった時のような、そんな参加者が作り上げる祝祭感のあるイベントだった。

もともとイベント出展は好きだ。自分の本をどんな人が読んでくれるかということを体感できるし、手に取ってもらって、さあ果たして買われるかどうかと目の前で見るあの数秒間の緊張感があるから、何かを作っていく上でのバランスをとっていられる気がする(取れているかは不明)。毎回勉強になるし、何より活力になるので楽しい。

新刊の尾道のイラストエッセイ本は、糸綴じ製本が結構手がかかるので、結局前日夜中までせっせと製本していた。いつもそういう時は夜3時を過ぎたあたりで「もうこのくらいにしといたろか」と思う。ひたすら眠い。思うのだけれど、「でも万が一何かの間違いでバズって売り切れてしまったら…」と、想像上のお客さんのがっかりした顔を図々しく思い浮かべて、あと10冊だけ…とやっているうちにだんだんハイになってきて、結局毎回イベント前は眠るのが朝方になる。なんとか少し寝て、寝不足の真っ赤なごろごろした目に無理やりコンタクトを入れて、本を詰めたキャリーケースをゴロゴロ引いて朝の電車に乗る。意識を失いかけながら乗り換えて、そして会場に近づいて行くにつれてだんだん気分が高まっていく。

気分が高まっているのはいいけれど、この時点で大体開場15分前とかだ。遅れると、出展者チケットで入れなくなってしまう。最後までゆりかもめだと思っていた東京モノレールを降りて、焦って会場に行くと、入場口に見覚えのある姿の人がいる。出展者チケットを持っていなかったジョージ(前回の毛布を参照)が入り口で止められていた。チケットを渡して無事に入場する。おなじみ中野さんと、チェコ親善大使であり、旅するはんこ作家であるあまのさくやちゃんは、もうすでにビシッとブースの準備をすませていた。気分が最高潮に高揚する。チーム・とりあえずリソグラフ、ここに再結成だ。

今回が入場者最多だという文フリ東京は大盛況だった。
ありがたいことに、夜中までやっといて正解だったというくらい、新刊もこれまでの本も、多くの方に手にとっていただけた。(在庫管理がうまくできずに在庫切れしてしまった本もあるが、本当は絶対完売しないブースを目指している。無理してでも絶対完売したくない。読まれてナンボだ。)お客さんが途切れることはなく、サインとして絵と言葉も描いてお渡ししていたので、結局一歩も自分のブースをでる余裕がなかった。

そして、今回はブースにいて、本当に感覚が今までと違った。
これまでは、会場を回遊しているお客さんがたまたま通りがかって表紙をみて足を止めて、「カワイイ!」と言ってくれて中身を読んでくれることが多かったとおもう(ありがとう)。

だけど今回は、そうでない部分をあらかじめ見て来てくれた人が一定数いたような気がした。どちらがどうというわけではないけれど、それは特にこういうイベントでは今まであまり感じたことのない体験で、それは本当に嬉しいことだった。

ミュージカルRentの歌詞に、"Starving for attention(注目に飢えてる)"という歌詞があるけれど、別に注目されなくてもいいと最近は思うようになった。だけど私は聴かれたい。それは確かにもう、聴かれたい。それは本能に近くて、暗闇の中で手が壁にちゃんと触れるのを探すように、文字通り「手応え」を求めてしまうのは、誰だってそうなんじゃないかとおもう。誰の姿も見えず、誰も聴いていないことも知らず、虚空に向かって歌っているような気持ちになる時もある。

折しも、今回隣の机だったジョージの新作絵本である『ザーテクノキウイ』はそういう物語だった。
主人公の、飛べないけれど踊るのが好きな「キウイちゃん」(ニュージーランドの飛べない鳥)が、ロックやジャズ、いろんな音楽がかかるパーティーに参加して、そして自分の居場所(パーティー)を見つけていく。
(ファニーで聡明で、大事なことが書いてあるけどやっぱりファニーで可愛い。寓話的なんだけどもっと遊び心があって、心が遊んでいて、とても真摯だ。水彩で描かれたキウイや、それぞれのパーティーに勤しむ鳥のイラストは、中野活版印刷店(荻窪にある)の中野さんがリソグラフで印刷しているのだけど、こんなに綺麗に色が重なるのかと驚いた。「ずれる印刷」として知られるリソグラフだけど、それがずれずにぴったりと重ねられたときにインクが織りなす味わい、表情は、正直めっちゃいいやんとちょっとうらやましいというか悔しくなった。これもまた良い刺激だ。影響を受けすぎだと笑われるけれど、とても良いので本屋さんやお店で見つけたらぜひ読んでみてほしい。)

自分のパーティー会場を見つける、というのは普遍的なテーマだなと思う。
SETOUCHI ART BOOK FAIRで、「自分のパーティー会場を見つけなきゃね」とジョージが言っていたのを思い出した。

私のパーティー会場はもしかしたら東京流通センターだったのかもしれない。これまでにない感覚だったし、何よりめちゃめちゃ楽しかった。

ブースでお客さんに本をお渡して、サインを書いて…というのをしているあいだ、ずっと、"I was heard."というような、聴こえていたのだ、というような、そんな感じがしていた。その感覚は、冒頭のデザフェスの帰り道に、落ちていた自分の名刺を見つけた時に似ていた。自分の存在、自分の輪郭を感じること。
それは、聴こえてきた音に触れてもらうような感じがした。

コウモリが超音波を出して、返ってきた音を聴いて距離を把握するように、だれだって、文字通りの「反響」をきいて自分の居所、自分の輪郭をより感じられるということがあると思う。それがないと自分の輪郭がわからなくなることもある。

もちろん、本当に大事なのは、音が誰かに出会った時に、生まれてくるものなのかもしれない。
だけど、それを意識しすぎると、ちょっと頭で考えたようなものになるし、気を取られてうまくいかなくなることも少なくないような気がするから、やっぱり音の源である作品そのものに集中するのがいいような気がしている。
フィギュアスケートの選手が、飛ぶ瞬間はおそらく飛ぶことしか考えないように、制作している間はその作品世界に集中するしかないのだと思う。


パーティー会場を後にして、また机に戻る。そしてなるべく旅に出る。 それを繰り返す。
とてもシンプルな暮らし。

文フリの後少しして、あまのさくやちゃんと特急あずさに乗って長野に行った。あまのさんが通いつめたいというほど惚れ込んでいる、長野の岡谷にあるイルフ童画館で、武井武雄さんの作品に初めて触れることになる。

展示されていた、武井武雄の詩画集にあった詩をメモしたのだけど、ノックアウトされたようになった。廃園の草、というのがその本のタイトルだ。

『廃園の草』
……少し謎が解けてきたような気がする。目まぐるしい高度文化への抵抗、素朴な原始への憧憬復帰、そういう近代人の欲求が、誰ひとり顧みないこの廃園の中を選んで静かに孵化しつつあるらしいのだ。

私は言葉が好きだけど、それと同じくらい、言葉が通じないことが好きだし、言葉を失う瞬間を求めている。

廃園の草、なんて言われたらもう何も言えることはない。
たった4文字で世界の理を表すようで、俳句よりもミニマルで大きな世界を内側にたたえている。たった4文字の中に、無限に伸びていく草の時間を感じる。
長野からも帰ってきてからも廃園の草、廃園の草…と呟いている。

武井武雄の作品群(とあえて書く)は凄まじく、世田谷美術館にブルーノ・ムナーリ展を観にいったときに感じたように圧倒されるものを感じた。とにかくまず量が膨大で、本当にひとりのひとがこれを生み出したのか、と信じられないような気持ちになる。(そして、それを信じられないと思っている自分の生産量に地に伏して横たわりたい気持ちになる)

ひとつひとつがチャーミングだし、「これが世界にあると嬉しい」というようにものすごく純粋なよろこびを表現している。「童画」という言葉を考えたのも武井武雄らしいのだけど、絵の世界はファンタジーというよりは幽玄の世界だった。”童”の目をしていない者には開かない、逆R指定みたいな世界が描かれていて、一体どうやったらこんなものを描けるんだろうと不思議でしょうがなくなる。

あっさりとワンパンで打ちのめされ、あああ…となりつつも幸福な気分で、なんで自分は小さいのだろうと愕然とする。
自分をまるで小さな砂粒のように感じる。お釈迦様の手のひらに横たわる孫悟空もこんな気分だったのだろうか。

あんな風に巨大で森羅万象を体現したような存在にはなれそうもない。
だけど、小さな砂粒として、内側に極小の世界をもっていたい。

そして、極小の点のまま、心臓が打つように、鼓動していたいとおもう。
ミュージシャンが曲を『音源』というように、本や作品も音源のようであるといい。ふるふるとふるえる極小の点は、鼓動しながら点のまま拡大していければいい。

ピアノを弾く時のように、自分が楽器の一部になったように、音楽の一部になったように最後まで曲を弾くように、本当は絵も文章も、自分ではなくなったみたいに、何かの一部になったみたいに描きあげてみたい。

文フリの時にもらった、聴こえていたのだ、というあの感覚を忘れずに、音が返ってきたと確かに感じたその感覚だけを身にしみこませて、作品世界に集中していきたいと思う。

最後になりましたが、文フリに来てくださった方、イベントに来てくださる方、いつもメッセージをくれる方がいなければ、こんなことを改めて思うこともなかったと思います。来てくださって本当にありがとうございました。


\お知らせ/ 

◆ She is でウェブインタビュー記事が公開されました。

11月特集#生理現象をおもいやる に、『生まれ、変わる人達へ』という絵と言葉の連作を寄稿させていただきました。

生理現象と、自分自身と「一致」するということについて書いています。
これについてはまた毛布で書きたいなと思います。
ぜひ読んでいただけたらうれしいです。

◆ 現在心強い助っ人の力に全面的に頼りながら、Webをリニューアル中です。近々公開予定です。私が最近アクティブになったのもこの心強さのおかげです。お楽しみに。

◆ 最後になりますが、来年刊行予定の新作イラスト詩集の準備を進めています。この冬はこの世界にどっぷりと入っていければと思います。詳しくはまた後ほどおしらせします。こちらもどうぞ、お楽しみに。

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