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希望という名の華々しい茶番劇

横浜の自宅に戻ってきて、寛いでいます。本日は、パラパラと読み返した水野和夫『閉じてゆく帝国と逆説の21世紀経済』(集英社新書2017)で引用されている、『希望という名の華々しい茶番劇』ということばから思い浮かんだことを膨らませて、自分の問題意識を深めておこうと思います。


「希望」は幻想

一般に、「希望」は好意的に受け止められていることばです。「希望」ということばから受け取るメッセージは人それぞれではあるものの、「未来には何の希望もない」「希望の光が全く見えない」というような台詞を四六時中述べていると、周囲から心配されるか、呆れられて、距離を置かれてしまいます。そういう虚無的で、常にネガティブ思考を漂わせる人とがっつり付き合うのは、かなりしんどく、心をやられます。

人類の歴史を踏まえた経済分析に定評があるエコノミスト、水野和夫氏は、19世紀の歴史家、ヤーコプ・ブルクハルト(Carl Jacob Christoph Burckhardt 1818/5/25- 1897/8/8)のことば、『希望という名の華々しい茶番劇』を、最終章『おわりに』の一番最後で使っています。

ブルクハルトは「歴史の危機」において、指導者の質が劣化し、「希望という華々しい茶番劇」が繰り広げられる法則があると書き残しています。アメリカとともに成長教の茶番劇を演じ続けるのか、ポスト近代システムの実験へと一歩を踏み出すのか。世界的ゼロ成長が完成しつつある今、日本は危機の本質に立ち戻って考えなくてはならないのです。

P255

水野氏は、このことばがお気に入りのようで、今年の『週刊エコノミスト』の記事のタイトルにそのまま用いていました。日本で長年採用され続けている異次元金融緩和は、これまでも数々行われてきた『希望という名の華々しい茶番劇』の一つに過ぎない、と批判的に持論を展開されています。

真実に目を向けるより、茶番劇での延命

私は、水野氏の経済現象を分析する視点と論説には一目置いていて、納得する部分が多いと感じています。しかしながら、そこから説かれる処方箋に関しては懐疑的で、それこそ夢も希望もない、突き放した冷徹な印象を抱いてしまうことが多いです。姿勢が、「私は診察のプロフェッショナルであり、病状分析は徹底的にやるけど、それを真剣に治療することに身体を張ることにはさして興味はない」という感じに映り、そのギャップの大きさに戸惑いを感じてしまう論者です。

真実に真剣に向き合うことで多くの人の現実が混乱と不幸に陥るくらいならば、たとえ茶番劇だとわかっていても、よりましな「希望」のストーリーに縋って、取り繕っておいた方が、社会へのダメージは少ないのではないか? というのが、現在の私の考えです。その姿勢が、打算的、妥協的、無責任との批判は受けようとも、清く、正しく、美しく、正々堂々と振る舞うことで不幸になることだけは何としても避けたいと考えています。限られた能力を振り絞って、残る人生をしたたかに生き抜いていくことに重点を置かざるを得ない、という現実的な判断があります。

水野氏の分析に従えば、まもなく資本主義崩壊の断末魔が世界中のあちこちに響き渡るのかもしれません。長年慣れ親しんできた資本主義の流儀から価値転換する作業は、相当に厳しく辛いものになるでしょう。その兆候があるのであれば、来るべき崩壊後の世界への準備を怠る訳にはいきません。本書で、水野氏が予測している『愛・美・真』の復活は大歓迎です。(復活は多分無理だろうと思っていますが……)

本日は、議論を深めるための十分な時間がありませんでした。継続して資本主義についての知識と情報を整理しつつ、自分の立ち位置、考察をこつこつと書き足していきます。

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