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大木惇夫の詩集『風・光・木の葉』を読む

 wikipedhiaによると大木惇夫は1895年広島に生れる。商業学校時代に文学に親しみ、与謝野晶子、吉井勇、若山牧水の影響で短歌を詠むようになる。のちに北原白秋の作品に心酔、傾倒するようになる。社会人となっては広島の銀行に勤めるが、20歳になると本格的に文学を志すようになり東京に居を移した。その後、同棲の女性が肺結核を患って小田原へ引っ越した。その地で北原白秋と知遇になっている。処女詩集『風・光・木の葉』には白秋の序文が付せられた。
 のちには歌謡曲のための詩も書く。もっとも知られているのは東海林太郎が歌った「国境の町」だろうか(この歌は巻上公一もアルバム『民族の祭典』のなかで歌っている)。そのほかに多く校歌の作詞にも携わっている。私の出た高校の歌も彼の作詞による(順序としては校歌の作者として知ったのちに彼に関心をもった)。

『全詩集大成 現代日本詩人全集』(東京創元社1955年)の第9巻に詩集『風・光・木の葉』『危険信号』『カミツレ之花』『風の使者』が収録されている。今回は詩人の処女詩集『風・光・木の葉』(1925)を数編読んだ雑感を記しておく。
 詩集の、ひいては詩人のスタンスは冒頭の表題詩にあらわれている。

一すぢの草にも
われはすがらむ、
風のごとく。

かぼそき蜘蛛の絲にも
われはかゝらむ、
木の葉のごとく。

蜻蛉のうすき羽にも
われは透き入らむ、
光のごとく。

風、光
木の葉とならむ、
心むなしく。

大木敦夫「風・光・木の葉」全文

「風、光、/木の葉とならむ」という意志の表明は、詩集全体に貫徹するこの詩人の観察への強い意志の表明である。風となってはひと本の草に絡み、木の葉にあっては蜘蛛の糸にもかかり、光となっては透きいるとんぼの翅に差して反射する——これらはいずれも風、木の葉、光によって、風景の正面にあらわれる観察の対象であり、なろうとするそれらは観察の契機である。一すじの草、かぼそき蜘蛛の糸、蜻蛉のうすき羽、これらは行き過ぎる日常のなかにありふれて、繰り返し現れうる風景を代表し、繰り返す日常のそのいずれの瞬間にも一回性の風景が現れていることを示す。それらはつまらぬといえばつまらぬ風景である。
 風、木の葉、光は草、糸、羽に気づかせ、詩人をそれへと注目させる。草は風にそよぎ、糸は木の葉にはじめてその存在を明かし、蜻蛉は光を跳ね返して詩人の足を止めたのである。存在の伝達者である。
 繰り返しの日常はありふれて再現される風景となるが、その一回性、その時間の風景にただの一度きり出会っているという時間の一回性の意識によって、その風景は固有の時間として立ち現れることになる。それは繰り返しの日常という意識にあっては次々に忘れられていく。詩人はこの一回性の意識の回復を読者に期待していると言えるだろう。ゆえに「風、光、/木の葉にならむ」と志されるのである。

想ひ
かすかに
とらえしは、

風に
流るる
蜻蛉なり。

霧に
たゞよふ
落葉なり。

影と
けはひを
われは歌ふ。

同「小曲」全文

この「かすか」「影と/けはひ」が詩人が見出す詩そのものである。社会的存在である人間は目的と予定に日々を消費する。言葉はそういうものへの道具としてばかり多く使われる。狭間にある孤立した時間のことは流れに埋もれて泡沫としても残らないなどということはしばしばである。詩人は誰もが一瞬気をひかれて、発語するまえに意識から沈んでしまうこうした風景へと意識を向かわせる。「かすか」なのは風景のほうではなく、それを無意識のうちに忘れていく「想ひ」のほうなのだ。どうやら何かを思ったな、それはこのあたりだな、そこに……ああ、蜻蛉がいたな。そういう風に意識される風景は、風景のほうは確かにありながら、意識にのぼらず、しかも主体に働きかけるものとして「影」「けはひ」だけが残り、そこに言葉を当てることのできないものとして忘れられていく情感の経路である。風景のほうは何も主張しない。そのために見過ごされてたちまちに消えていく。

雪こそ解けぬ、
一二すん下には
草もあをあを芽ぐんでゐようよ、
どこやら、底明るい空に、
となりの子供の吹いてゐる
鶯笛の音もとほるよ。

同「鶯笛」全文

 この詩集は全体に、そうしたたちまちに消えていく現在を採集した幾つもの短い詩から構成される。この「どこやら」は何に掛かっているか、と問うてみると、当然、どこと知れぬ「底明るい空」に掛かっているととることもできようが、ここでは「となりの子供」に掛けてみたい。雪解けのまだ待たれる雪の下に草の出芽をみるように(それは見えていないながら)、「となりの子供の吹いてゐる」ウグイス笛も広大な雪の下に鳴っている。子供の姿もその笛の音もここでは詩人のとなりであかあかと現前しているのだが、それは雪の下にあかあかと芽ぐむ草の存在のように、とおくの者の耳朶をは打たない。そのように世界は主体の不知の領域に開かれているのである。ここにたしかにあることと、どこかにたしかにあることと、それがひとの可聴域の限りでしかあると言われぬこと。繰り返しの日常という意識は不可視の領域を一般性の平板さへと圧縮していく。詩集はこれを詩人に可能な限りで解凍していくのである。

霧がふり、
こほろぎが鳴き、
靜かな朝。

妹とすする番茶のかをり、
茶碗にふれる箸の音、
黙って、ほゝゑめば、
この世の隅に
生き残された二人のまぼろし……

霧がふり、
こほろぎが鳴き、
靜かな朝。

同「朝餉」全文

 第1,3連のリフレインに挟まれている事象は実在としての幻である。詩集はそれら幻を幻とせずあかあかと明かす風・光・木の葉なのである。

聲をひそめむ、
雪の蔭より
茨の細枝は赤く芽ぐむに。

同「茨の芽」全文

 それらは幻としての性質をもちながら、主体へとその存在を凛々と示すのである。彼らはじっと沈黙し、見つけてくれともほっといてくれとも言わない。ただあるだけの存在である。それゆえに、そうしたものは「心むなしく」して振り返るとき、はじめて「赤く芽ぐむ」のである。彼らの声は沈黙の中にあり、その声を静かに聴きとって少ない言葉のうちに描きとっている。
 ここに挙げた詩篇を読んでみると、読者の記憶に沈んでいた風景を呼び起こすということがあるように思う。それは懐古の念を伴わず、時制のない記憶である。それが現在であってもよい。一瞬のうちに忘れられた風景なのだ。懐古よりはむしろ明瞭さを与えてくれる。それは、詩集に収録された風景の数々はやはり、ありふれた日常のなかに潜んでいて、無意識へと仕舞われて顧みられない風景だからであろう。

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