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悲しい音楽をなぜ聴くか —心の哲学・認知科学による見解のまとめ—

私たちはよく、悲しい音楽を好んで聴くことがあります。
これは、改めて考えると不自然なことではないでしょうか。
今回の記事では、なぜ私たちは悲しい曲を積極的に聴くかについて、こころの哲学で行われている議論をまとめていきたいと思います。


悲しい音楽をなぜ聴くか?

冒頭でも述べた通り、私たちは悲しい音楽を積極的に聴くことがあります。
悲しいという感情は、一般には「重大な喪失が生じたときの情動」です。例えば財布を無くしたり、家族が死んだり、恋人と別れたり…そんな時、私たちは悲しみを感じるのです。
通常であれば悲しい気持ちはできるだけ避けたくなるもののような気がします。にも関わらず、私たちは悲しい音楽を聴くのです。
これは一体なぜでしょう?

このことはもう少し一般化すれば「私たちは負の情動をもたらす行動をなぜ進んで行うことがあるか」という疑問となります。
それはバンジージャンプをすること(恐怖)や、胸糞悪い炎上記事を読むこと(怒り)についても同じことが言えそうです。

この疑問に答えるために、哲学者たちは様々な説明を考えてきました。ここでは代表的な2つの説明について見てみましょう。

補償説
マイナスの情動が生じるとともに、プラスの情動も生じ、差し引きすると全体として好ましい経験になるため、積極的に負の情動を求めているように見える、という説明。
つまり、悲しい音楽を聴くと確かに悲しくなるわけですが、それと共にプラスの感情も生じていると考えるわけです。例えば寄り添ってもらうような安心感、カタルシス的な効果、演奏の技術の巧みさや、音楽自体の美しさに対する感動などなどがプラスの情動の例として挙げられるでしょう。

デフレ説
一見すると負の情動を求めるような行動をしているように見えるが、実は負の情動は起きていないとする説。
つまり、悲しい音楽を聴いても実際に悲しくなっている訳ではなく、一方で上記のようなポジティブな効果は生じるため、積極的に行動しているのだという説明です。

補償説とデフレ説の違いは「悲しい音楽を聴いた時、悲しみは生じているか」ということについての見解です。悲しみが生じているとするのが補償説であり、そもそも悲しみは生じていないのではないかと問いかけるのがデフレ説ということになります。
悲しみが生じているか否かについて、より掘り下げて考えるにあたり、「そもそもなぜ、悲しい音楽を聴くと悲しくなるのか」という点についても触れてみましょう。
このことについても、よくよく考えると不思議なことが起きているのです。

悲しい音楽はなぜ悲しくなるか?

上述の通り、悲しみという情動は何か重大な喪失が生じたときに起こるものです。
一方で、そうすると「悲しい音楽を聴くと悲しくなる」ということ自体が矛盾をはらんでいるように見えてきます。
なぜなら、悲しい音楽を聴いている時、私たちは何も喪失しないからです。

喪失がないのに、悲しみを感じる。これは一体どのように説明することができるのでしょうか。この疑問についても哲学者たちは様々な説明を行なっています。
ここでは代表的な二つの説明について詳しく見ていきましょう。

錯覚説
悲しい音楽を聴くと、錯覚により悲しい情動が生じるのだとする説。
聴き手は悲しい音楽を聴く際に、何も喪失はしないし、そのことを理解はしているものの、そのような知識を持っていても錯覚の悲しみの情動が実際に聴き手に生じてしまう、というように説明がされます。

ここでいう錯覚の理解を手助けするために、ミュラー・リヤー錯視の引き合いに出してみましょう。

ミュラー・リヤー錯視

有名な錯視なのでおそらく一度は見たことはあるでしょう。我々は上の図において、赤い線分が同じ長さであることを知識として持っています。
にも関わらず、やはり図を見ると、上の赤線より下の赤線のほうが長く見えてしまうのです。

悲しい音楽もミュラー・リヤー錯視と原理的に変わらないとするのが錯覚説です。我々は悲しい音楽を聴く時、何も失わないという知識を持っていても、やはり悲しい音楽を聴くと、悲しい情動が生じてしまうのだということです。

なぜ悲しい音楽に対して錯覚が起きるか、という点についても様々な議論がなされています。例えば類似説と呼ばれる説によれば、悲しい音楽は悲しんでいる人の特徴を持つために悲しく聴こえる、と説明しています。具体例としては、テンポが遅く、音程の上下が少ない曲は、悲しい人の声を想起させるため悲しい音楽に聴こえる、といった類です。

エラー説
悲しい音楽を聴くときに悲しみの情動は生じていないものの、聴き手は自分が悲しい状態であると誤って信じてしまう説。

エラー説を理解するには、「自分に実際に生じている情動」と「自分にどのような情動が生じているかという自己認識」の間には、時にズレが生じるのだということを抑える必要があります。
例えば、顔を真っ赤にして声を荒げているのに、自分が怒っていることを否定する人がその例にあたります。この人には怒りという情動が生じているのに、自身の情動については「怒っていない」と自己認識しているのです。

このズレをエラー説では音楽に適用します。
悲しい音楽を聴く時は、何も喪失は起きていないので、悲しみの情動は生じません。ですが同時に「自分は今悲しいんだ」という自己認識が発生するために、私たちは悲しい音楽を聴くと悲しく感じるのだと、エラー説では説明するのです。


錯覚説とエラー説は一見すると似ているようですが、やはり「実際に悲しみの情動が生じているか、生じていないか」という点が大きく異なります。
この対応は、上述した「なぜ私たちは悲しい音楽を積極的に聴くか」という疑問の説明で出てきた補償説とデフレ説に類似していることが分かるでしょう。
つまり、なぜ悲しい音楽を聴くかについての説明と、悲しい音楽を聴くとなぜ悲しくなるかについての説明において、補償説と錯覚説、デフレ説とエラー説は、それぞれ「悲しみが生じるか否か」という見解において相性が良いことになります。

認知科学の導入

さて、ここまでの議論の論点を総括すると、「悲しい音楽を聴いた時、実際に悲しい情動は生じるか」という点が、記事タイトルの「悲しい音楽をなぜ聴くか」という質問にとって重要な役割を果たすことが分かりました。
一方でどちらが正しいかということについて哲学の範囲内で決着をつけるのは難しそうです。どちらの論理も筋が通っているように思えます。

この議論に決着をつけるために、今回は認知科学の知見を取り入れてみましょう。

今まで哲学の話をしていたのに、急に科学の話が出てきて戸惑われる方も多いかもしれません。
しかし、これは「自然主義的哲学」という立派な哲学の方針です。
この方針は簡単に言うと「哲学的考察を行うにあたって自然科学との連続性を重視する方針」となります。
今回のように心について考察を行う哲学について、心とはどう言うものかについては心理学で既に研究が進んでいますし、脳神経科学においても研究がなされています。哲学に自然科学を持ち込むことは違和感があるどころか、すでに自然科学を参照しなければ心について哲学的に考察することが難しい局面が訪れているのです。

ということで、ここまで哲学の議論のみしてきましたが、ここからは認知科学の知見も取り入れてみましょう。
認知科学的には「悲しい音楽を聴くとき、悲しい情動は生じているか」という疑問に対してどのような研究がされているのでしょうか。

悲しい音楽の認知科学

今回は悲しい音楽についての以下の研究を取り上げたいと思います。

この論文のタイトルは"Sad music induces pleasant emotion”、つまり「悲しい音楽は心地よい感情を引き起こす」というものです。
この研究では、悲しい音楽を被験者に聴かせた時の情動について調べています。

実験の内容を簡単に説明すると、以下のようになります。

  • 44名の被験者に悲しい音楽(歌詞が無く、あまり知られていない、マイナー調の曲)を聴かせる。

  • 被験者に以下の二つの質問を行う。

    • この音楽を聴いた時、あなたはどのように感じましたか?
      (被験者が実際に感じた情動についての質問)

    • 普通の人はこの音楽を聴いた時、どのように感じると思いますか?
      (被験者がその音楽について認識した情動についての質問)

  • 手元の感情リスト(幸せ、悲しい、落ち着く等)に、0(全く感じない)から4(凄く感じる)までの5段階評価でマルを付けてもらう。

実験の結果、以下のことが明らかになりました。

  • 悲しい音楽を聴くと、悲しい情動は確かに生じる。一方で悲しい情動と共に、「高まった情動」「ロマンチックな情動」「陽気な情動」といったプラスの情動も生じている。

  • 悲しい音楽を聴いた時、「自分が認識した悲しみの感情」よりも「自分が実際に感じた悲しみの感情」の方が弱い。また、ロマンチックな情動、陽気な情動に関しては、「自分が認識したプラスの感情」より「自分が実際に感じたプラスの感情」の方が強い。

    • 具体的に言えば、多くの人は悲しい音楽を聴いた時「この音楽は普通の人にとっては悲しく聴こえるだろうけど、私はそこまで悲しくは感じなかった」と答える傾向がある。プラスの情動についてはこの反対の傾向がある。

実験結果のグラフ

心の哲学と認知科学の接続

認知科学における上記の実験結果は、心の哲学とどのように接続されるのでしょうか。

まず実験結果は、悲しい音楽が実際に悲しい情動を引き起こすこと、それと同時にプラスの感情も引き起こすことを示しています。
このことは、「なぜ悲しい音楽を積極的に聴くか」という説明で出てきた補償説と相性が良いでしょう。というのも、補償説とは「悲しい音楽を聴くと悲しみの情動が生じるが、同時にプラスの情動も生じるため、差し引きすると聴き手に良い感情を与える」というものだったからです。
また「聴き手に何も喪失はないが、悲しみの感情が実際に生じている」という点については、「悲しい音楽を聴くと悲しくなる理由」に対する錯覚説を支持しているように思えます。

一方で、上記の実験では「聴き手が認識した感情」と「聴き手が実際に感じた感情」にズレが認められる点も重要です。
今回の実験ではこの二つを明確に区別した上で被験者に音楽を聴かせていましたが、一般的な音楽体験では両者の混同が起こりうるでしょう。
つまり自己認識としては「この悲しい音楽を聴いた時、私は実際に悲しくなり、情緒的な情動や陽気な情動はそこまで発生していない」と思っていても、実際の感情としてはそこまで悲しみを感じておらず、むしろ認識していたより情緒的・陽気な情動が強く生じる可能性が認められるわけです。
この、悲しい音楽に対する認識と、実際に生じる情動とのズレは、エラー説による解釈と当てはまりが良いように思えます。

心の哲学・認知科学の議論まとめ

上記までの議論を振り返りつつ、タイトルの「悲しい音楽をなぜ聴くか」という問いについての一つの答えを出してみましょう。

まず、悲しい音楽は、実際に悲しい情動を引き起こしています。しかし聴き手に喪失は生じていないため、この悲しみの情動は一種の錯覚として考えられそうです。

しかし、「悲しい音楽にはプラスの感情も生じる」ということは普段あまり意識されていません。それは私たちが、悲しい曲はより悲しく認識されるよう、補正がかかる傾向があるからです。
つまり、私たちは悲しい音楽を「情緒的なものや陽気なものではなく、悲しさを感じさせる音楽だ」と認識しますが、実際にはそのような自己認識よりも悲しさの情動は生じていませんし、プラスの情動についてはむしろ認識より実際に生じる情動の方が強い傾向にあるのです。

このように、悲しい音楽は私たちが認識しているよりも大きいプラスの情動をもたらします。
恐らくは私たちの認識の範囲外で、悲しい音楽は悲しみというマイナスの情動よりプラスの情動をより多く与えてくれます。そしてそのために、私たちは意識せずとも悲しい音楽を積極的に聴くことに価値を見出しているのでしょう。

以上が、今回の記事における主張となります。
補償説 + 錯覚説 + デフレ説に対して認知科学で正当性を補強したような主張になっているかと思います。

おわりに

以上、心の哲学と認知科学の観点から「悲しい音楽をなぜ聴くか」という疑問にアプローチをしてみました。
興味深かったでしょうか。それとも人によっては「何を当たり前のことを」と思った方もいるかもしれません。

考え方は人それぞれあると思うので、もし意見が食い違ったり、違う考え方もあるのではないかと思った方は、気軽に教えていただけると嬉しいです。

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最後まで読んでくださってありがとうございました。

参考文献


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