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【自伝小説】最南端の空手フリムン伝説|著:田福雄市@石垣島|第6話 帰省編(4)

ゴッドハンド来沖

極真会館が沖縄に支部を設立して5年目の事である。

遂に県内で初めての公式大会、「全九州空手道選手権大会」が開催される運びとなった。

まだ沖縄県大会が始まる1年前の事である。

当時の大会ポスター。県内のあちこちに張り出された。

フリムンは、この大会を是が非でも観戦しなければならなかった。

何故なら、この世界で本格的に活動するために、県内に住む空手家たちのレベルを知っておく必要があったからだ。

石垣島ではまだ脅威となる相手に出くわした事は無く、このままでは“井の中の蛙”となり、これ以上の成長は臨めないと思っていた。

何なら若干“天狗”になり掛けていた。

これは良くない事である。カミさんに事の次第を説明し、直ぐにチケットを購入。

飛行機に乗り島を飛び立ち、宜野湾コンベンションセンターへと向かった。

試合会場に着いたフリムンは、目の前の光景にいきなり度肝を抜かれた。

数えきれないほどの長蛇の列が、体育館入り口から駐車場の端まで続いていたからだ。

「な、なんて凄い人気なんだっ!( ̄▽ ̄;)」

それもそのはず、あの極真会館創始者にして、空手の神様と謳われた世界のゴッドハンド「大山倍達総裁」が来場するのである。

更に、2年前に開催された世界大会の日本代表選手団も来沖。沖縄県支部長の七戸師範と共に演武を披露する事になっていた。

これは空手ファンならずとも、是が非でも見たいシチュエーションである。

フリムンは、高鳴る鼓動を抑えきれずブルブルと震えていた。 

極真会館創始者の大山総裁と七戸支部長のド迫力氷柱割り

※ちなみに最近知った情報によると、宜野湾コンベンションセンターの“歴代観客動員数”は、あの沖縄が生んだ国民的大スター安室奈美恵の解散コンサートに次ぎ、この全九州大会が「第2位」という事が判明した。まさに驚愕の新事実である。

本物

そして遂に「開会式」が始まった。

初めて極真の世界大会メンバーを間近で目撃したフリムンは、その鍛え抜かれた肉体から溢れ出るエネルギーに圧倒され、その場にへたり込みそうになっていた。

特に沖縄県支部長の七戸師範は、日本人離れした体躯に加え、プロレスラーにも引けを取らない筋肉の鎧を身にまとい、他を圧倒するオーラを撒き散らしていた。

「こ、これは想像以上にとんでもない世界だ」
「こ、こんな世界で俺は本当にやっていけるのか?」

フリムンは感動とは違う感情により、少しばかりヒヨっていた。

そして、いよいよ大山総裁の登場である。

場内アナウンスの「大山倍達総裁の入場です」という声に、5,000人を超える観客は一斉に立ち上がり、その姿を見るや否や、大きな歓声と拍手が沸き起こった。

フリムンは、生まれて初めて人が放つ「オーラ」をハッキリとこの目で見た。

「なんて凄い気だ…これが世界のゴッドハンドか…」

もうこれだけで入場料の元は取れたと言っても過言ではなかった。

ただフリムンにとって、これが最初で最後に見た総裁の姿であった。

開会式では、地元沖縄を代表してM選手(現·沖縄県支部師範代)が選手宣誓を行った。

こうして始まった1回戦。

後にライバルとなるはずの選手たちの動きをこの目に焼き付けるため、フリムンは最前列付近に席を取っていた。

その眼前で繰り広げられる熱い戦いに、手に汗握りながら色々とシミュレーションを繰り返すフリムン。

「自分ならこんな時どうするだろう?」
「今のは流石に見えなかった」
「上手いっ!そして速いっ!」

島で喧嘩を売ってきた“自称空手家”たちとは雲泥の実力に、身の引き締まる思いに駆られまくっていたフリムン。

そんな中、並み居る強豪を押し退け、あの選手宣誓をしたM選手が決勝まで勝ち上がってきた。

クリクリとした目の、どちらかと言えば空手家っぽくない童顔のM選手は、強烈な突きを中心に次々と相手をマットに沈め、当時全日本でも活躍中であった岐阜支部のN選手と“あいまみえた”。

どちらも勝ちに徹し、最初からスタミナ配分などお構いなし。

延長、再延長、体重判定でも決着が着かず、最後は試し割り判定でM選手に軍配が上がった。

試合中のバッティングによる流血により、互いに顔面を真っ赤に染めながらの激しい競り合いに打ち勝ったM選手。

沖縄代表の重圧を跳ね除けた「諦めない心」と「責任感」に心打たれると共に、体の奥底から溢れ出る「嫉妬心」にフリムンは苛まれていた。

「絶対に来年はこの舞台に立ち、俺が大山総裁に握手して貰うんだ」

皆の期待に応え、総裁と握手を交わし胴上げされるM選手の姿を、唇を噛みしめながら見つめていたフリムン。

総裁のサイン会の列には並ばず、「来年優勝するまで取っておく」と踵を返し、会場を後にした。

帰りの機中で眼下に広がる那覇の街を見つめながら、「待ってろよ」と軽く舌打ちをし、静かに眠りに入ったフリムン。

この時、既に彼の頭の中は、「打倒M選手」で隅々まで埋め尽くされていた。

本格始動

九州大会の衝撃から間を置かず、フリムンは直ぐに行動に打って出た。

「来年の本番まで1年しか猶予はない」

フリムンは空手の稽古と並行して、本格的にウエイトトレーニングにも力を入れた。

あの化け物じみた空手家たちに喧嘩を売るには、今のままでは心もとないという理由からである。

これまでは通販で手に入れた器具を自宅に設置し、自己流でトレーニングをしていたが、自宅でやれるのは高が知れていた。

このままでは大した実力は身に付かないと思い、これまたN先生の紹介で、あるGYMを紹介して頂いた。

石垣島で最初にできたGYM…「Yボディビルジム」であった。

そこは当時、石垣島の腕自慢がほぼ集まる最強のGYMであった。

そこで出会ったのが、後に極真空手石垣道場相談役となる、ボディービルダーの「O会長」であった。 

現役時代のO会長。県チャンピオンになった直後の写真である

【地獄のトレーニング】

現在、「八重山地区パワーリフティング協会」の会長を務めているY会長。そのY会長が石垣島に興した初の本格的なGYM。

そこで一際“異彩”を放っていたのが、現役ビルダーの中で最も沖縄県チャンピオンに近かった「O会長」であった。

とにかく会長のトレーニングは凄まじかった。

しかし、フリムンは会長との練習を特に好んだ。

生半可なトレーニングでは極真で通用しないと思っていたからだ。

それでも最初は付いていくのが精一杯であった。

ただ、会長と同じ質量はこなせなくとも、絶対に自らギブアップはしなかった。

それだけは譲れなかった。空手家の意地というやつだ。

当然の如く、フリムンの筋細胞は徐々に破壊と再生を繰り返し、見る見るビルドアップしていった。

そして遂に、正式なパワールール(踵やお尻を付けたまま、バーベルを胸で一旦静止させる競技ルール)で125㎏を挙げられるようになった。

胸で停止せずにバウンドさせれば、130㎏は行けた。

こうして空手の実力だけでなく、パワーの世界でも通用するだろうというところまで近づいた頃、ある事件が起こった。

あるパワーリフターが放った何気ない一言に、フリムンがブチギレたのだ。

「空手家って上半身に比べて下半身は大した事ないね♪」

この言葉にフリムンは憤慨。

その日から、トレーニングメニューの中心はスクワットに書き換えられた。

「空手を…極真をバカにした奴は絶対に許さない」

面倒くさい男に火が着いた瞬間であった。

Mr.そいつ

それまではプレートの入った右足を庇い、それほどスクワットには力を入れてこなかった。しかし、あんな事を言われて黙っている程お人好しではなかった。

とにかく“そいつ”を見返すことと、黙らすことに全神経を集中させた。

週に2日、スクワットを中心にした下半身の強化に取り組んだ結果、徐々に大腿筋に肉が付き始めてきた。

そして、まだハーフスクワットではあったものの、170㎏まで自己記録を伸ばす事に成功。

それを見た“そいつ”から、もう暴言を吐かれる事はなくなった。“そいつ”の記録を軽く超えたのだから当然だ。

ただ、その頃にはもうフリムンの眼中に“そいつ”の姿は消えてなくなっていた。それには自分でも驚いた。

「これが強くなるって事か…」

弱い犬程よく吠える…少しでも自身が付くと、吠える声の大きさや数は徐々に減っていくことを知った。

肉体だけでなく、少しだけ心の成長を感じた夏の出来事である。

旅立ち

“そいつ”のお陰で、人としても空手家としても大きく成長したフリムン。

今ではあの一言を放ってくれた彼に、心から感謝しているという。

そんな事を繰り返している内に、アッと言う間にあの九州大会から1年の月日が流れていた。

「実戦空手同好会」は既に消滅し、ほぼ独りでこの期間を乗り越えてきた。

それでも、この世界で生きていくと公言したあの「決意」に、心揺らぐことは微塵も無かった。

あの怪物たちと“あいまみえる”ために積み上げてきたこの1年という月日は、フリムンにとって大きな一歩である事は間違いなかった。

もう後戻りできないところまで来た。

少なくともフリムンはそういう思いでいたが、彼の周囲には、いつ覚めてもおかしくない“微熱”くらいにしか思われていなかった。

「どうせ通用しないよ」
「負けたら直ぐに諦めるさ」
「これ終わったら空手やめて、ちゃんと定職に就きなさい」

そういう声を聞く度に、フリムンはやるせない気持ちに陥っていた。

「悪い事してる訳じゃないのに、どうして認めてくれないのか?」
「ならば絶対に結果を出して見返してやる」

全九州に引き続き、沖縄で開催される記念すべき「第1回全沖縄県空手道選手権大会」の申込書を手に、フリムンはメラメラと闘志を燃やしていた。

1994年4月24日(日)那覇市民体育館。遂に極真会館の公式戦デビューを果たす日がやってきた。

2歳で父親と死別。4歳で母親と生き別れ。

幼い頃から人生の舵を切る事を強いられながら生きてきた27年と10か月。

頭を7針も縫う大怪我に始まり、先輩からの可愛がりで瀕死の重傷を負ったり、バイク事故で腕を骨折しながら九死に一生を得たり、スネを粉砕骨折して空手を諦めたりと、とかく挫折や失敗の多い人生であった。

しかし、これから進む旅の道中では、それを遥かに凌ぐ苦難が待ち受けている。

まさにイバラの道だ。

そんな事とは露知らず、ただただ夢を膨らませ、不安よりも期待の方に多くのエネルギーを注入していた当時のフリムン。

そんな彼の野望は果たして叶うのか?

次回予告

次回、衝撃の「県大会殴り込み」の全貌が明らかに。
ファン待望の 『黎明期編』 乞うご期待!!


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この記事を書いた人

田福雄市(空手家)
1966年、石垣市平久保生まれ、平得育ち。
八重山高校卒業後、本格的に空手人生を歩みはじめる。
長年に渡り、空手関連の活動を中心に地域社会に貢献。
パワーリフティングの分野でも沖縄県優勝をはじめ、
競技者として多数の入賞経験を持つ。
青少年健全育成のボランティア活動等を通して石垣市、社会福祉協議会、警察署、薬物乱用防止協会などからの受賞歴多数。
八重山郡優秀指導者賞、極真会館沖縄県支部優秀選手賞も受賞。


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