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創作のこころえ

創作するとことに対して
凄く考えすぎていたような気がする。

今の世の中、すごく便利になって、SNSや、いろんなもので手軽に文章に触れたり、
創作に触れることがより、手軽になった。

その中でじぶんがいいな。と感じる文章や、生活、表現、活動をしている人が多くて
こんなことがしたい。あんな文章を描きたい。こんな絵が描きたいと、わくわくすることが
できる。

だけれど、徐々に、
「この文章は見栄えがいいか」「クオリティが高いものかな」「わざわざ言うような、書くような内容なのかな」と考えるようになって、
まえにもこんなこと書いたな〜とか。

人の文章に触れていい経験をするのと同時に、SNSで文章を触れる回数が多くなると
同時に、「自分の考えを自分の言葉で。自分の世界観を自分の感性で。」表現することへの不安が増して思い切りさが減っていく。

自分が、何を書くか、なにを表現するか、経験したこと、感じたことは私だけのものだから自由にその経験や感想を道具のように使って自由に扱って文章を書いていい。

だから、文章の書き方や、内容も、散文的なものでいいし、
決められた枠組みから外れてもなんら問題ない。(そもそも枠組みなんてあるのか?じぶんの脳内で考えただけの幻想では?みたいなところもある。)

それに気づくのもだいぶ時間がかかった。

思い出しては忘れて、「こんなおしゃれなしっかりした文章がかければいいな。」と
ぼーっと考えて、
メモ機能を開こうとするのはいいものの、「
私の文なんて」とアプリを閉じる繰り返しで、自分のやりたいことに蓋をして、

需要、という言葉で片付けて。

需要がないだろうし、だけで諦める。

そんなことはもう、正直辞めたい。

私は文章を書くのが大好きだし、
絵を描くのも大好き。

合わせたら、もっときっと楽しいし、
いろんな世界を広げられる。

小説も書きたい。

創作は需要とか、お金になるから、役に立つから、とかだけじゃない。

うちがわから溢れ出るわくわく、心が踊る感覚。
私だから書ける文章がある。

人に影響やいいアイデアは貰えるけれど、それはきっと

この人みたいにしなきゃ、と頭を悩ませて苦しい思いで寄せて、私には無理だとうなだれる様なものじゃなくて、

ワクワクして生みだしたものに滲み出てくる中の影響だったり、私の創作物や私を形作るものとなった人の作品の雰囲気や人の思想の残り香的なものが残るぐらいだと思う。

それがいい。

ふつふつと湧き出てくる文章、心が踊る創作。
こうしなきゃああしなきゃ、こうするべき、ああしているから、ではなく。
こうしたら楽しい。ああしてみよつ。こうするとどうなるかな、ああなったらいいな、で
創作を楽しみたい。

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