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毒親という概念から広がる虐待認定。

毒親という言葉を聞いた事があるだろうか。

毒と比喩されるような悪影響を子供に及ぼす親、子どもが厄介と感じるような親を指す俗的概念である。1989年にスーザン・フォワード(Susan Forward)が作った言葉である。学術用語ではない。スーザン・フォワードは「子どもの人生を支配し、子どもに害悪を及ぼす親」を指す言葉として用いた。「毒親」に関する議論は、親の「自己愛」問題が主な共通点であり、自己愛的な親(英語版)について語られることが多い。毒親に育てられたと考える人が、自らを毒親育ちと称することもある。

Wikipedia

スーザン・フォワードの「毒になる親」は日本でも出版され話題になった書籍であるが、フォワードは冒頭でまず「この世に完全な親などというものは存在しない」とし、「時には大声を張り上げてしまうこともある」、「時には子供をコントロールし過ぎることもある」、「怒ってお尻を叩くこともあるかもしれない」という親も「普通」であるという見解を示している。続けて、こうした普通の親とは異なる親の存在として、「ところが世の中には、子供に対するネガティブな行動パターンが執拗に継続し、それが子どもの人生を支配するようになってしまう親がたくさんいる」と述べた。
確かに完璧な親はいない。興味深いのはフォワード自身はこれを虐待と結び付けてはいなかったという事である。冒頭部分にある、時には感情で叱る親を普通であるとしている。
問題なのは執拗に継続して、それが子供を支配するようになる親が問題であるとしている点だ。
この時点ではいわゆる、子供を虐待によって死に至らしめる親と毒親とでは区別があったように思われる。

子供を虐待死させる親は昔からいた。松尾芭蕉は旅すがら貧しい農村で子供を食う親をみて、それを嘆く句を読んでいる。昭和に入ると松本清張著「鬼畜」では、夫が他の女に産ませた子に暴力を振るい、死に至らしめる妻とそれを見て見ぬふりし、あまつさえ子供を崖から落とす父親が出てくる。
酷い虐待は昔からあった。そして現在でも虐待は無くならないが、今の日本には児童相談所がある。
児相(児童相談所)では虐待の疑いのみで親子を分離して子供を保護する権限がある。
そして、児相による一時保護は毎年鰻登りに増えており、児相の一時保護所は常に満床であり、こういった子供の受け入れ先が足りないとまで言われている。
しかし、不思議な事に虐待死する件数は常に横這いで増えも減りもしていない。
こうした矛盾はなぜ起こるのだろう。
毒親という概念が日本に入ってきてから、子供に対する虐待の基準が徐々に拡大されたように私は思う。
毒親をテーマにした本は増えて、毒親育ちを主人公にした、漫画や小説も一気に増えた印象だ。
確かに、フォワードが提唱する「執拗に子供の人格を貶め、支配する親」は存在する。問題が多い親や機能不全を起こしている家庭は確かにある。そこで苦しむ子供がいる事も本当だ。
ただ、それは命の危険がある虐待といえるのだろうか。
児相が親子を長期間に渡って分離しなければいけないような虐待といえるのだろうか。
親として未成熟だからと、親から子供を引き剥がす事が、親子を救う事に本当になるのだろうか。
毒親だから、親子は分離して社会が育てれば良いと簡単に思う人もいるかもしれないが、親と分離された子供は精神を病んだり、社会的に自立出来ないケースが多いともいわれている。
親として未熟で子育てが上手くいっていないなら、まずは福祉の観点でその家庭に寄り添う事が必要だと思う。児相はまず、相談所としての役割りをもっと考えるべきではないだろうか。
毒親の概念がDVの基準を拡大解釈させている事と同じように、児相はこうした毒親が子供に支配的になっている=命の危険がある虐待と判断し、虐待の基準を狂わせてはいないだろうか。

毒親という言葉は本当によく出来た造語だと改めて思う。人の心に深く浸透して蔓延していく。
こうしたレッテル貼りは、親による虐待が問題であるという声高に言うマスコミにとっても都合が良い言葉だと思える。
子供はやはり、両性の親が揃った家庭で育つ事が一番、健全だと私は思う。児相にはもっと原点に立ち返って相談所としての在り方を考えて貰いたい。
一時保護によって長期間に渡る親子分離は違法であると、大阪高裁で認定された訳だから。


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