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社会問題やあれこれへの参加を魅惑する、体験のデザイン

ぼくはフィンランドに来る前、いわゆるUXデザイン・体験のデザインなるものをなりわいとしていた。あれこれあり、デザインそのものの在り方に希望を見失ったので飛び出したわけだが今は光を見つけている(下記の往復書簡を参照)。最近ふと体験のデザインに対しても、可能性を見いだせたこともあった。

以前のべた想像力の重要性に加え、日本の自治精神の欠如は、社会を未来につなげるために取り組みたい大きな課題意識だ。おしなべてデザインというものから意識的に離れていたが、体験のデザインの可能性は、未来に必要なこうした人間性を涵養する回路の再構築、そしてそこへの参加の魅惑にあるのではないかと最近思う。ここでは後者・参加への魅惑を考えたい。

失われた自治・参加

いきなりだが日本は民主主義国家ということになっている。しかし、民主主義というのは、自治がベースであるべきではないか。多数決がいい手法なわけではないし、選挙をしていれば民主主義なわけでもあるまい。日本は、お上の国である。自助・共助・公助という言葉があるが、いまは地縁や共同体も薄れ、自治精神もなく公助に飛びつく(無論、今回の営業自粛やアーティストに対する補償などは完全に公助の領域だが)。日本は、民主主義を勝ち取ったわけではないので、制度上は民主主義であっても、精神としては存在していないのではないか。

人間は政治的な生き物である。自分で考え、自分で決めることができるのは「私」の領域のみであり、他者なしでは生きられない。しかし自分と他者は利害も価値観も異なるために「公」が必要になる。民主主義のお話から入ったが、この公というものは、生活の中の小さな場面でも立ち現れる。文化祭の出し物を決めるときですら、公的なものがそこには存在する。でも現状は、そうした公共判断なるものを放棄しているということ。

近代化の過程では共同体がシステムやサービスに取って代わられ、自助・共助の精神は失われていった。国家や市場に依存する「消費者」であることから抜け出せなくなってしまった。仕組み化といえば聞こえはいいが、それは自助共助に替わり、コストと効率を求める精神を涵養した。結果ぼくたちが今目にするのは、損得志向であったり、極度の自己責任論であったりする。見知らぬ他者への愛など当然もちづらい。となれば、なるべく半径5m以内の「私」に留まり、「公」に対して働きかけることが、"費用対効果"としても見合わなくなる。

参加とはなにか

ぼくは大学院でParticipatory Design=参加型デザインという、デザインの結果により影響を受ける人々がプロセスの中で声を上げ、意思決定に関与する権利を持つべきだ、というデザインアプローチが専門だ。それは政治的な力関係や倫理、抑圧や解放といったものに働きかけることだ。単に一緒に何かをつくることを謳うわけではない。

この参加というのは、Parti(一部分)cipate(掴む)ということだ。何らかの'全体性'を想定した上での部分である。つまり、自らの問題をより大きなものと接続した上で、それを自らが引き受けていくこと。役割を担うことだ。その全体性とは、自分の住むアパートの住人、家族、企業、地域社会、国家...惑星、宇宙と拡がっていく。それぞれをどう引き受けていけるのか、が今問い直されている。

参加のグラデーションと共事

引き受けることだといったが、参加には濃淡がある。十全たる責任と役割を当事者として担うのは、制作的な参加とも言えるかもしれない。事象に対して、当事者的に制作へ参加をするということは、新たな未来を編んでいく営みである。これは非常に濃度の高い参加であるが、ものごとというのはそうした当事者だけでは立ち行かないこともある。

たとえば、セクシュアリティの問題。これは個人の自己肯定「わたしはありのままでいいんだ」も当然に重要だ。一方、問題を個人のみの帰属へと矮小化しかねない。その自己肯定に至るまでには、いや至ってからも、常に社会とのかかわり合いにより影響を受け続ける。学校という小さな社会で周りに適切な理解がなければ、自分を認めることも一筋縄ではいかない。つまり、社会総員をあげた問題である。これを社会課題として捉え、社会運動や事業として取り組む人々も大勢いる。一方、直接そうした介入はせずとも、アライ=理解者として寄り添い、問題意識を少し友達に話すということが、社会運動への参加、もっといえば、それ自体を運動の形として捉えることだってできるのではないか。

小松理虔さんは、共事者という概念を提唱する。それは「当事者」=事に当たるではなく「共事者」=事を共にすることだ。なにかに対して、自分は当事者ではないから...という負い目のようなものを感じることがあるかもしれない。それは、当事者/非当事者という二項対立で考えられているからであり、それを問い直し、伴走すること・ただ居ることも参加の形態だよね、と認めることだ。

ぼくは震災から1年後の2012年に、石巻を訪れた。ボランティアをしたかったわけではない。大学1年だった当時、何をすればいいか分からないままに、何が起こったのかという現実や場の空気を身体に刻まねばと思い、足を運んだ。駅に降り立ち、ヒビの入った商店街をあるきつつ、坂を登り、下りにさしかかった瞬間、瓦礫になった海岸沿いの街が目の前にひろがる。2時間ほど瓦礫の中に佇み、その帰り道に駅ちかの小料理屋に入った。店内の壁には「ここまで水がきました」という線が記してある。軽い気持ちできたと思われてるのではないか、と店主のおじいさんに少し引け目を感じながら名物の石巻焼きそばを食べていたとき、「来てくれるだけでも嬉しいんだよ」と優しく声をかけてもらった。こういう関わり方もあるのか、と感じた。

要は、祭りを興す人も、神輿を担ぐ人もいる一方で、観るだけの人もいる。それは観るという役割を担う。もはや神輿すら観てないかもしれず、スマホをいじっているだけかもしれないが、居るという役割がそこにある。すべて参加だが、どれだけ引き受けるかで、参加の濃度は当然ことなる。でもどれも必要な一部なのだ。

体験のデザイン:参加と包摂の実現

自治精神を考える上でも、これは大きなヒントになる。近代的市民という枠組みが適切なのかは一考の余地はあれど、自治精神・引受けは経験を通さないと涵養できないのではないか。生まれ持ってそれを伴っているわけではないのである。だから、それにはまずもってして、どのような形であろうと参加が欠かせない。さらには、無意識的な参加ではなく、その意味に気づくこと、居るという役割を認識することが第一歩になるのではないか。であれば、参加を誘発す導線をひくこと、そしてそれを自覚的に捉え次に進めるような補助線をひくこと。これが必要ではないか。これはまさに、体験設計でいう、予期的UXやエピソード的UXなどの話でもある。

参加を誘発するというのは、こうも言える。人々を魅惑するのだと。上妻さんは「制作へ」で、道具を使うことだけでなく、様々な仕方で関係したいと思わせることを「魅惑」であると述べる。つまり、魅惑とは自分なりの関係の仕方を考えてもらうような欲望を生成することだ。

意識の低い導線・異なる入り口

この魅惑のための処方箋は多様だが、以前知人は意識の低い導線をつくるという言葉を使っていた。ここで意識の高低というのは揶揄したいのでなく、本当の目的・テーマに対しての動機のありかや関心の度合い、という意味合いだ。

事例と共に述べる。先に挙げた、セクシュアリティの問題は個人ではなく社会に関わるお話である。しかし、まじめに「多様性だいじだよね」「セクシュアリティの問題についてあなたも考えましょう」と説いても、そのテーマに関心の強いひとにしか届かない。なぜならその他の人々にとってはそのテーマに魅力を感じない、または自分が関わっても"費用対効果"が見込めない、または当事者ではないと思い込むからだ。それを崩すために、Rainbow Prideという祭りの形式で、みんなで楽しむ。それは社会課題に関心がなかったとしても、祭りを覗いてみたい、デートでいこうかな、という別の関心・動機により、魅惑することである。そこで得られる体験は全く別のものになる。祭りというものに魅惑され、関係が始まるのだ。

また、中田敦彦のYoutubeチャンネルも1つの好例だ。歴史を真面目に勉強するというところに対して、これは全く別の入口を用意する。「あっちゃんがやっている」ことがまず見る理由になるかもしれない。これは面白い芸人というものに魅惑され、関係がはじまると考えられる。

その後につなげる補助線

もちろん、このような参加は主体的な「引き受」に必ずしもつながるわけではない。Rainbow Prideに参加した人の少なくない人々は、大きな意識もテーマに対する関係性ももしかしたら変わらないのかもしれない。そのために、次にどういった補助線を引くのかは、考えどころである。この祭りが、自分というものにどういう意味をもつのかを考えさせる補助線かもしれない。その祭りについてツイートするにしても、 イイね集めや思い出の記録のためのツイートと、これもぼくができる役割の1つのなのだと自覚した上でのツイートでは、意味合いが大きく変わる。

もちろん濃度の高い参加へ繋がった方がおもしろい。制作的な参加へつなげること、そこに可能な限り多くの人を包摂すること。それはやはり、その制作により変容できるからだ。セクシュアリティの問題に関して、コミュニティアプリをつくることに半年ほど携わったことで、ぼくのテーマに対する関係はがらっと変容し、まなざしや身体は組み替えられたのだ。そのプロジェクトから離れてからは、参加の濃度は低くなっただろうが、テーマに対する関係の持ち方は以前とは全く異なる。例えばここで事例として取り上げることだって、ちっぽけなぼくが今できることのひとつであり、参加のかたちだからだ。

ただやはり、そもそもの参加の輪を拡げるという意味では、従来の当事者的な関係の仕方のみでは立ち行かない。だからこそ、多様な参加を認める共事者になる、そのための参加へ魅惑する、補助線をひく。そうしたところに体験デザインは間違いなく寄与できる。アプリの体験の流れを考えるのがUXデザインなわけでもない、未来に賭ける価値ある社会への架け橋として必要な体験を考えることに貢献できるのだというお話。



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