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【読書録82】致知2023年4月号「人生の四季をどう生きるか」感想

 表紙は、先日、藤井聡太王将と王将戦で死闘を繰り広げた羽生喜治氏。同世代という事もあってか、非常にシンパシーを感じるとともに、変化し続ける姿に心打たれる存在である。

総リード 人生の四季をどう生きるか

 
 人生の四季、いつをどの季節にするのか?本号の対談記事で、五木寛之氏は、以下の通りとしている。

「青春」25歳まで
「朱夏」50歳まで
「白秋」75歳まで
「玄冬」それ以降

 そして、朱夏、白秋までは、現役として社会活動を果たす時期としている。
 48歳になり、「朱夏」の終りが近づいているが、まだまだ、社会活動を行う時期は、続く。一方で、節目を迎え、会社との距離感などは、考えないといけない時期でもある。

 そして、藤尾秀昭氏は、この朱夏、白秋の時期に大切なこととして、因果の法則を晦まさないことを挙げる。

 すなわち、善きことをすれば善きことが、悪しきことをすれば悪しきことが返ってくる。ということである。

だからこそ私たちは勤勉・誠実・丹精を旨とし、謙虚・素直に努め、感謝と感動、知恩・報恩に生きる人生を全うしたい。そこに五木氏の言うように、六十代は収穫期、七十代は黄金期となる人生が開けると思うのである。

因果の法則については、致知2022年12月号追悼稲盛和夫の際に、取り上げた、稲盛さんの講話の中の、「安岡正篤師の「立命の書『陰騭録』を読む」」の話が印象的で心に残っている。

「因果の法則」、大切にしたい考え方である。今回、5年振りに人事異動となったが、去る際には、その部署で今まで行ってきたことの答え合わせをしているような感覚になった。頑張ってきた事が報われたと思ったこと、手を少し抜いてきたことのしっぺ返しを受けているような感覚に陥ったこと、様々である。

 そして、玄冬の時代の生き方については、安岡正篤師の言葉を紹介する。

”老”という文字には三つの意味がある。一つは年をとる。二つは練れる。三つは”考”と通用して、思索が深まり、完成するという意味だ。老いるとは単に馬齢を加えることではない。その間に経験を積み、思想を深め、自己・人生を完成させてゆく努力の過程でなければならない。
 

 この自己や人生を完成させてゆく過程という考え方には、共感する。老いるとは、衰退するのではなく、完成させてゆく、練れていくものであると考えたい

 最後に引用する曹操の詩も壮大で良い。

  「老驥櫪に伏す 志千里に在り 烈士暮年 壮年已まず」
 (一日千里を走る駿馬が老いて厩に伏しているのは、なお千里を走らんがためであり、雄々しい男子は晩年になろうとも志を捨てない。)

 老害とならないようにしなければならないが、志は、いくつになっても必要である。
 この志を持ち続けるにも、今は、因果の法則を忘れず、己を磨いていく時期であろう。

一道に生き、我が情熱は衰えず

 
 指揮者の小林研一郎氏と将棋棋士の羽生喜治氏の対談記事である。一つの道を貫き、極める二人の対談記事である。特に羽生さんと言えば、最近の藤井聡太王将との王将戦の死闘の記憶が残るが、若いころから天才と言われ、七冠を総なめしている状態から今まで走り抜けてきての心境が興味深かった。

人生にはいろいろな循環があると思うんです。それは自分自身のことでもあるし、周りの環境のことでもある。そこには変化や苦難がつきものであり、それは避けることができない。冬になる時は冬になるし、春になるときは春になる。頑張っても逆らってもいかんともし難い自然の摂理のようなものがあるとしたら、受け入れていくしかない、その時々でベストを尽くしていくしかないというのが私の考え方なんですね。
そしてこう続ける。

しかし、私の経験からしても悩んでいる時に意外な人が助けてくれたり、思わぬ出来事が起きて物事が好転していくことが多くありました。その意味では、多少辛いことがあったとしても、あまり考えすぎないように心掛けています。

この考え方はものすごく心に響く。将棋の世界は、「十年単位」であるとの捉え方から来る考え方なのかなあと思った。

結果を気にし過ぎてもいけない。深刻に受け止め過ぎてもいけない。かといって目の前にある現実から逃避してもいけない。その辺りの加減がとても難しいんですね。自分なりの方法論のようなものはたくさん出てくるのですが、一つのやり方を確立しても、そこにはいくらでも改良の余地が出てきて、後に大きく変わることもあります。結局はその時に最良と思う自分なりのスタイルを持続させていくしかないと思うようになりました。

 七冠を取った時には、到りえない心境であろう。これこそまさに、巻頭リードでいう、練れていく、完成させていくという事なのだろうと思う。

 80代になる小林研一郎氏は、羽生氏に、「七〇代の頃に分からなかったことが八十代になって分かったとか、そういう感覚を抱かれることはありますか?」と問われ、

瞬間としてみれば「分かった」と思うこともあります。しかし、まだまだですね。いまでも自分の演奏の録音を聞き返す度に打ちのめされてばかりです。

と答える。
 
 自分のなかでまだまだ到らないこと、自分の駄目さ加減が走馬灯のように浮かぶことがあるが、小林氏程の指揮者でもそうなのだと思うと、成長の過程、練れていく過程だととらえたい。

人生百年時代をどう生きるか

 作家の五木寛之氏と東洋思想家の境野勝悟氏の対談記事である。お二人は、昭和7年生まれの90歳。

話は、五木寛之氏の著書「人生百年時代の歩き方」から始まる。

境野氏は、一番胸を打たれた箇所を、世の中というものはうまくいかないものだとした上で以下のように説かれている所であると紹介する。

「にもかかわらず、なんとか今日まで生きていること、そのことの価値をこそ認めて、自分を評価してあげなければいけないのではないでしょうか」

「人生思いどおりにならないなと悩みや迷いを抱いたときこそ『生きているだけですばらしい』と、自分を再評価してほしい。悔い多き八十六年を生きてきた、私の実感からの提案です。」

 人間は色々と求めすぎがちなのかもしれない。
私の場合で言えば、家族と一緒に笑い泣きながら過ごせていること、やりがいのある仕事があること、これで十分なのかと思う。人にどう思われようと、気にしない。自分の価値観に沿った生き方をしたい。そう考えさせられた。

境野氏が始めて参禅したときに山本玄峰老師からいただいた言葉が良い。

「座禅は禅坊主の修行ではない。お前さん自身の修行だ。今生きていることの値打ちを自分の中に自分でみつけるのが禅だから、しっかりやりなさい。」

「生きていることの値打ちを見つけよ」この言葉で90歳まで座禅を続けているという。素晴らしい。

 総リードのところでも紹介した人生の四季を「青春」「朱夏」「白秋」「玄冬」に例えたが、「白秋」(50~75歳)の時期についてこう言っている。

「白秋」は、自分のそれまでの努力に花が咲く時代だと思います。この花は失敗したら咲かないかというと、そうじゃない。成功だけを花だと思って、咲かなかったらダメという考えはやめたほうがいい。花はいろいろあって、成功という花もあれば、失敗という花もある。失敗して落ち込むのではなく、その失敗から学んで自分の糧にしていけば、それも一つの立派な花だと思います

「成功・失敗に関わらずその体験をよく生かして、明るく楽しく生きられたらいいと思う。」という境野氏の言葉に勇気をもらう。
そう、成功も失敗もない。明るく楽しく生きられれば良いのである。

 最後に、五木氏が、紹介する、世界的なジャズドラマーが相談にきたドラマーに送ったという一言が印象的だったので紹介したい。

Keep On。君の道を行け、そのままずっと続けなさい。

私はこのキープ・オンというのがすごく大切だと思うんです。そのエピソードを聞いてからは、何でもキープ・オンだと思ってやってきました。ですからこの「致知」でも長く連載を続けさせてもらっていますし、「日刊ゲンダイ」というタブロイド紙には、四十五年間休みなしで毎日原稿を書き続けています。

私のこの読書録の毎週投稿もKeep Onしたいものである。これが私の道なのかもしれない。

慎独(ひとりを慎むなり)


 田口佳史氏の連載「四書五経の名言に学ぶ」は、今回は、大学から「慎独」を取り上げている。

効果のある精神修養法として「慎独」を自信をもって推奨するという。

心の中から誠にしなければ何事も外にあらわれてしまうと君子は考え、自分をどこからみても立派な人間にしようと、独りの時こそ要注意で、不善を行わないよう修養する。

江戸時代の三大修養法として「慎独」のほかに、2つあったという。

「立腰」
腰を立て、姿勢を正しくする胆力を鍛えるために、丹田呼吸し、背骨を伸ばし、血液の循環を活発にする。

「克己」
怠惰に流れがちの自分の怠心をきっぱり否定し、より精進と努力へ向かわせ、自分を律する力を鍛える。

 忙しくなってくると、修養法を軸として持っているのは大切であるなあとつくづく思う。致知との向き合いは、毎月色々と気づかせてくれる。

 そしてなかなか思い通り行かない時こそ伴走してくるものである。




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