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やり抜いた先に見えるもの

ある程度のところまでたどり着いたような、そんな気持ちになっている。
なんだか力が抜けたような、これからどうしていこうかとそんな感じだ。

症状とは「希望の橋」のようなもので、一見マイナスにしか見えないこの要素は実は少しの閃きと仕組みを認識することで希望の鍵になるという土台を見つけた。

この次元に合わせた形でのメッセージとして症状を用いて身体が伝えてくるのだという自分の説に納得している。

この認識を持ち、声を聴くという前提で身体に関わるなら、とても良い施術ができるという確信と、ある意味理想としている形に成るという達成感があった。

実際にこれらの認識を持ちながら施術を行うと、個人差があるが「一度」の施術で完結してしまうことがある。

「完結」というと「完治」に思えるがそうではない。
サイキック整体にとっての「完結」はもう自身の力でその問題に取り組んでいけるという確信が得られることを言う。

施術をした時点における最善を導くために全力を尽くすわけだが、施術を受けた本人の中で納得できるものが身体と心の両方で得られた場合、あとはその感覚や気づきを軸に生活してもらえるのが理想だ。
そうすることでどんどん心身にその感覚が馴染んでいき「戻る」ということがなくなる。

1つこう言った気づきがあればこれが軸となって他の新しい経験にぶつかることがあっても、この成功体験や感覚をもとに応用することができる。

だから1つ気づいて1つ実践できればあとはもう個人の工夫次第で如何様にも前に進んで行けるという構図になる。

あとは僕自身がその人を見た時に「もう大丈夫そうだな」となっていれば、基本的には最低2週間空けてそのあとは本人の状況に任せると言った具合だ。

人生に何か強い目標があって、もっとこうしたい、ああしたいというのがあれば頻度高く受けて貰えばいいが、今の所そういう方は少ない。

変化とは振子のようなものなので早く変わったものは早く戻る可能性があるし、着実に変わったものは少しずつ戻っていくようなそんなイメージだ。

何事も陰陽であるので、自身が手をかけた分と同じ時間を用いてその反対の作用が生じる。

そんな感じなのでなんというか「やり切った感」みたいな変な燃え尽き感みたいなものがある。

徹底的に突き詰めすぎたのかとも思うが、どの道手を抜く選択はないので時間の問題だったと思う。

一回である程度のところまで行けるならお金にもならないしどうしたもんかと思った矢先にふと思ったことがあるのでまとめる。

前置きが随分長くなってしまったが、どうかこの先も読んでもらえると嬉しい。


「自身の持つ能力や得意を活かして、世のため人のために使っていくこと」

これが大切なことであるというのは小さい頃からよく聞いてきた。
でも、これがどういうことなのかいまだによくわかっていないのが正直なところとしてある。

人のために使うことが一体何になるのか?
なぜ自分のために使ってはいけないのか?
人のことよりもまず、自分のことを優先してという話とどちらを信じたら良いのか?

自身を犠牲にして他に尽くしてきたという自覚はない。
どちらかというと、とにかく自分を徹底的に否定し、傷つけ、蔑ろにしてきた。

当時は小さい頃から積み重ねてきたコンプレックスのおかげで、自己肯定感など皆無で、アドレナリンを出して無理やりハイになることでしか自己を肯定する術がなかった。

それくらい余裕がなかった。生活はできるが内面でとにかく必死だった。
社会生活を維持できるよう最低限のラインを確保することに精一杯だった。

そんな時に「もらうより与えるほうが偉い」みたいな話を聞いたので、この苦しみから解放されるには人のために頑張るしかないのだと、1つの答えを得られた嬉しさと、その裏側にある絶望の両方を内包した気持ちで生きていた。

基本的に人付き合いが嫌いだ。
でも「ヒト」という生き物の仕組みや世界の法則を感じるのは好きだ。

だから何よりもまずは「自分のために」徹底的に好きなことを磨いてきた。
僕はこんなことが好きで、こんなふうになりたいと思ってます!とたくさんの人に宣言してきた。

お世話になったカウンセラーの人やヒーラーの人には「世のため人のために頑張ることがあなたにとって生き甲斐になるよ」と言われた。

確かにそう思う時はあるし、感謝されて嬉しいと感じることもある。
でも、「俺自身が満足してないのにいくら感謝をもらっても仕方ない」と思っているのも事実だ。

自分の興味関心が、結果として人の役に立っているというだけで、根っこは「自分のため」というのがどうしても根付いている。

だからSNSの発信も結局は「自分のため」のものだし、それが誰かに引っ掛かればいいやくらいのものだ。

人のためと自分のための境界線とは一体どこにあるのだろう?
なぜ自分はいまだに、自分のためというのが強いのだろう?

そんなことを考えていた時に、自分の中で一定の水準の納得が得られた瞬間に「燃え尽き症候群」みたいな感覚になった。

そして自然と「次は人のためかぁ〜、どうやるんだろ」と思った。
小さい頃から「自分」というものを押し殺し、怒りを溜め込み続けてきた。
だから大人になってようやくあの時出来なかったことをやっているのではないかと思った。

「自分のため」というものを徹底的にやってみた先に外に意識が向くのではないか。

今はまだそう思えないということはきっと満足していないからだ。やりきっていないからだ。

いいんじゃないか?
とりあえず自己中心的に頑張ってみても。

そのうち飽きて、他のところに目が向くようになるよ。

そうだったらいいなぁって思って、今日も1段ずつ積み上げていく。
いつその時が来てもいいように、磨き続けていこう。

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