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フリージア 〜根源的な「傷」に感謝と慈しみを〜

自分の施術が良いなって思うのは、内面での葛藤や傷などを身体の症状(腰痛や肩こり)を通して向き合えるということ。

身体の痛みは言えても、心の傷や痛みは言いにくいし、自覚もしにくい。
だから身体は「症状」という形、声に変えて、本人に気づいてもらえるように工夫するわけだ。

⭐️自覚症状をクッションにして、本丸となった内面的な「情動」にアプローチできるのが基本であり最大の強みであるとも思う。

ここまで言語化できたのはこれまで施術を受けにきてくれた方や、アドバイスをくれたみんなのおかげなわけだが、僕自身もかなり「自分」というものに向き合ってきた。

人より長く、深く、そしてしつこく取り組んでいるからこそ「内観」という作業はぶっちゃけお勧めしない。やらなくていいならマジでやんなくていい。

そうとは言ってられない現実があるから、みんなセッションを受けたり、コーチングを受けたりするわけだが、やらなくていいなら本当にやりたくない。

とにかくキツイ。そして終わらない。
1個終わったらまた次が来るし、1個がとても深くて長いものだったりする。
そして、孤独だ。アドバイスをもらうことができても、それをどう解釈して落とし込むか、最終的にどう決めるかは自分でやらなければならない。

自身の皮膚より外の存在ができるのは「選択肢の提示」と「信じる」ことくらいだ。
人生への介入はルール違反というか、それを行うと共依存的になって共倒れエンドもあり得る。

だからこの施術は良いのだ。
⭐️症状という痛みや違和感をクッションにすることで間接的に内面や過去にアプローチできるから。

内観の大変さを身をもって知っているからこそ、それに取り組んだ勇者には僕なりの敬意と尊敬と労いを込めてこの施術を届けたい。

内観がキツイのになんでやめないかと言われると、僕はそういう領域においてドMだからだ。ちょっとアホなんだと思う。

大事なことなので2回言うが、
内観や向き合うということに対して自他共に認めるドMである。
向き合うことがキツイものであるほど興奮する。
この痛みが、俺をここまで連れてきたと言っても過言ではない、マジで。

見ている時は確かに痛い、マジで痛い。
でもそれなりの期間やってるからか、だんだん気持ちよくなってきている。
痛みの中にも種類やグレードがあって、あまり軽すぎるとリターンも少ないからあまり旨味がない。かといって核心的過ぎると死にたくなる。

自身が準備できる程度のものはチュートリアルという感じで本質ではない。
いつだって大事な気づきや学びというのは人生の死角からふいに降ってくる物だった。

虚実的な痛みはそれなりにキツイし、必要なことではあるがどこか軽く、経験値的に旨みがないことがわかってきた。

饒舌に、過去の経験からデータを取り出し、それらを参考に、冷静に分析できる程度のものは大したことがないというのが僕なりの結論としてある。

単純なキツさだけでなく、その純度やタイミングなど、受け入れ難いと思うものほど自身の内側に深く根差した何かであるということがわかっている。

最近、それら経験を軽く凌駕するようなとんでもないやつが出てきた。
拒否反応が凄すぎて「見たくないです」っていう言葉しか出てこなかった。
全身を掻きむしりたくなるような、ぶつけようのない怒りや悲しみ、自分が選んだことという認識があるからこそ、文句を言えないもどかしさ。

とにかく最悪だった。雑巾を絞るように全身が捩れた。
捻り切りたいとさえ思った。それくらい深い傷だった。

一体何だったのかというと
積もりに積もった「理解されない辛さ、苦しみ、悲しさ」からくる、不貞腐れてしまった、諦めてしまったという情動だった。

竹内晶貴という人間は
とにかく「理解されたかった」「話を聞いて欲しかった」

本当にそれだけを求め続けた存在だ。
今よりも幼い頃は、自分の気持ちを伝える術がなかった。どうしたらいいのかわからないのと、どうして伝わらないのかが本当にわからなかった。

間違って入ってしまった教室とか、自分だけ寝ててみんな移動してたとかそんな感じの感覚。

このαという世界線に間違って迷い込んだ名無しの少年みたいな感じで「世界」という教室を間違えたのかと本気で思っていた。

子供というだけで全部片付けられたり、あしらわれたり。
家族からもまともに取り合ってもらえず、「理解」という土台に上がることがなかったし、何より勇気も持てなかった。

当時は、壊れないために蓋をすることが精一杯だった。

いつしか表現することを諦めてしまって、不貞腐れた。
「どうせ・・」というのが癖になってしまったことが本当に嫌で情けなかった。

自分の気持ちを伝えるために戦えない弱さも情けなかったが、自分の人生を諦めたみたいで心が折れた。

だって俺は何よりも話をすることが得意で好きで、表現したくて仕方なかったからだ。それができないとか、通用しないとかいう時点でもうキツイ以外の何物でもなかった。

そんな「傷」が蓄積した結果
人間関係をリセットするという癖が身についた。
これ以上傷つくことが耐えられなかったから先に逃げるということを繰り返してきた。相手が傷つくことを考える余裕がマジでなかった。

それくらい自分が繊細であるということに気づかなかった。

でも、自分の人生を生きようと決めて昨年から色々なことを変えてきた。
背負うこと、託されることがなかったから心身ともに身軽に動けた。

でもそれは本来の自分が望む「軽さ」ではなかったのだ。

そんなことに気づいたりなんだりしていたら「ふっと抜けた」瞬間に立ち会った。

まぁ、仕方なかったよなぁって。
あそこで頑張ってたらホントに死んじゃってたかもなぁって。
不貞腐れててよかったんだろうなぁって。

今だからこそ思うのは、今を生きている俺自身が、いつの日か過去の自分を癒せるくらい優しく、格好よくなるぞということ。

色々やってみたけど、
弱さは変わらなかった。
傷つきやすさも変わらなかった。
ましてやこの傷に気づいてからとにかく「寂しい」という気持ちが溢れて止まらなかった。

誰かに見つけて欲しかった。だから今の俺が見つけてやろうと思った。
そうだよなぁ、キツイよなぁ、しんどかったよなぁって。

他の誰かではなく俺自身が、あの頃の自分の隣に座ってやるべきだと思った。
これからも傷ついていくし、打たれ弱いのは変わらないんだけど前より、俺は俺が弱いってことが少しわかったから、きっと寄り添える部分もあると思うぞって。

って自分に伝えたら軽くなった。
みんな話を聞いて欲しいんだよって思ってたけど
俺が一番聞いて欲しかったんだよなぁ〜笑

そしたら施術にも変化が起きた。
今までは「自分がイメージする結果」に固執してて、それ以外だった時にめちゃくちゃ凹んだ。

これでもうまくいかなかったらいよいよ俺に価値なんてなくなるんじゃないかっていうのがチラついて、眩暈がしておかしくなりそうな時もあった。

でも、この根源的とも言える「傷」に気づいたことで「どんな形であれ、この施術を良いって言ってくれるんならそれでいいのかな」って自然に思えるようになってきた。

それと同時に何かとイジられることについても一周したというか、1段階深いところで捉えられるようになった気がする。

傷つかないように、自分で自分を下げて、守るようにふざけていたところから、

傷つくのは仕様です、装備なので諦めてください、付き合い方学んでくれ、
それでも楽しんでもらえると嬉しいよねっていうところに。
傷は傷として認めて、そこからさらに向こうへ行きたい。

元々お笑いは好きで、小さい頃からずっと見てきた。
自分の表現で人が笑うことが楽しくて、狙ったことがハマった時はとにかく嬉しかった。

純粋にふざけるというか、自分の良さを出せるような気がしている。

もらった言葉とか、意図から受ける想いを超えてより俯瞰してみたときに、一体何が見えるのかを今は知りたい。

隠すことを一旦終えて、開いて生きるということが少しずつ経験できている。
タイムリーな感覚だからイマイチ言語化が難しいのだけれど、パッションで受け取ってもらえればと思う。

とにかくなんかスコンと抜けたんだ。

悲劇的な自分ってとても甘美なもので、どこか悲劇のヒロインで居たいと思ってしまう。心配されれば構ってもらえるし、もしかしたら会ってくれるかもしれない。

そういう感じで「傷」や「弱さ」を人質に人と関わるのもやめようと思った。
弱さを知るのは依存するためじゃなくて、自分に誠実でありたいからだ。
弱さと繊細さを内包しつつ真摯に向き合う姿勢を、施術や出会いを通して知ってもらえればと思う。

こんな僕でよければよろしくお願いしますね🤭

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