脳で感じる嗜好の趣① コーヒーその3
コーヒーの趣は味わうことだけにとどまらない。なんと自分でも淹れることができるのだ。
自分が思考を巡らせていた、あの複雑性を自らの手で生み出す。こんなに素晴らしいことはない。
さらに、自分が淹れたコーヒーは、自分で飲むだけでなく、他の人に飲んでもらうこともできる。
コーヒーを淹れるという行為は、思考であり実験であり創造であり表現であり思想であり繋がりであるのだ。インタラクティブで刹那的な総合芸術と言っても差し支えないほど、その1杯には意味があると僕は思っている。
まあ考え方次第では、ただの毎朝のルーティンの一つであるかもしれない。人間が淹れなくてもマシンが淹れてくれるかもしれない。でもこれは、それだけコーヒーの持つ意味の幅が広いということだと思う。コンビニコーヒーの1杯から、人生をかけたバリスタの1杯まで、おなじコーヒーという飲み物にこんなに意味の幅があるというのは、コーヒーの一つの魅力でもあるだろう。
淹れるという行為
コーヒーには、果実を収穫してから抽出するまでにそれなりの時間が存在している。収穫した果実を生豆に落とし込む方法でも味が変わり、最後に抽出するお湯の温度、抽出速度でも味が大きく変わる。考えるだけで途方もない、無限に近い味の可能性が存在する。
コーヒーの時間の流れは、豆を焙煎した時に一気に加速する。コーヒーとしてのクライマックスに向けてカウントダウンが始まるのだ。そして、焙煎した豆を挽いた瞬間、その時間はさらに加速し、抽出→飲むというクライマックスまで一気に駆け抜ける。
コーヒーは鮮度が命なのだ。
間延びした時間の流れはコーヒーの真価を抑制する。
このクライマックスの中で、コーヒーを淹れることは物語の最後のピースをはめる、まさしく画竜点睛の瞬間なのだ。自分の思うように、物語を完結させればいい。
まあ、自分で挽いてすぐに抽出するのが大事ということである。焙煎は個人でするよりプロが安定した火力で行うのがベストであると思うので、個人では、挽く→抽出→飲む を楽しむこを全うするのが良いと思う。
具体的に
できるだけ均等に豆は挽けた方がいい。僕は電動ミルを使っているが、その理由は安定さ、均等さ、調整に優れているからだ。ここら辺からはその人のコーヒー哲学によると思う。
淹れ方も様々、フレンチプレスからエスプレッソマシンまで、いろいろあってそれぞれ楽しみ方がある。これも、コーヒーの味覚への探求だ。
豆の持つ個性と、淹れる過程で生まれる個性に思考を及ばせ、最終的に1杯のコーヒーを創り上げていく。時に自分が想像した味を大きく裏切ってくるかもしれない。
こうした、コーヒーがコーヒーになるまでの時間のすべてに思考を及ばし、実際に作り上げる、そしてまたその味を楽しむ、そのすべてがコーヒーを楽しむということだと僕は思っている。
Art
コーヒーを淹れることはアートだと思う。
1杯のコーヒーを淹れることに、自分の衝動・思想を乗せて
その世界と一体になり、その世界を味わってほしい。
100g幾千円で楽しめるなんて、なんて手軽で趣の深い嗜好なのだ…
とりあえず、コーヒーについてはこの辺かなあ
僕はグアテマラ産の豆が好き。
では。
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