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マイスモールランド

*アメリカで書いていた文章に加筆修正した

あらすじ

17歳のサーリャは、生活していた地を逃れて来日した家族とともに、幼い頃から日本で育ったクルド人。現在は、埼玉の高校に通い、親友と呼べる友達もいる。夢は学校の先生になること。

父・マズルム、妹のアーリン、弟のロビンと4人で暮らし、家ではクルド料理を食べ、食事前には必ずクルド語の祈りを捧げる。 「クルド人としての誇りを失わないように」そんな父の願いに反して、サーリャたちは、日本の同世代の少年少女と同様に“日本人らしく”育っていた。

進学のため家族に内緒ではじめたバイト先で、サーリャは東京の高校に通う聡太と出会う。聡太は、サーリャが初めて自分の生い立ちを話すことができる少年だった。ある日、サーリャたち家族に難民申請が不認定となった知らせが入る。

在留資格を失うと、居住区である埼玉から出られず、働くこともできなくなる。そんな折、父・マズルムが、入管の施設に収容されたと知らせが入る……。

映画『マイスモールランド』オフィシャルサイト 2022年5/6(金)全国公開 (mysmallland.jp)

今、アメリカでこの映画を観てよかった。留学前ではこの映画に対して抱く感想は違うものだっただろう。生まれた土地と異なる場所でマイノリティーとして生活するという経験は、(日本という帰る場所があり、帰る時期が明確に決まっている時点で彼らの立場とは似ても似つかないけれど、)この映画での彼らの行動や心情の解像度を間違いなく高めている。

自分は「クルド」について何も知らなかった。そして”難民”として(日本では法的に難民だと認められた例は無いに等しい)日本に2000人もの人々が住んでいるとは思いもよらなかった。それは日本と難民という単語が結びつくイメージがないからだろう。自分も、主人公のサーリャが本当はドイツ人ではなくてクルド人だと初めて打ち明ける時、聡太とおなじように「ごめん、わからない」と答えるしかなかったと思う。

日本は経済大国でありながら移民、難民を極端なまでに受け入れていない、受け入れてこなかった国だ。しかし、難民は来たくて日本に来たわけではなく、自国(クルド人の場合は特定の自国というものはないけれど)を当事者の意思に反して離れなければならなかった人たちで、日本には彼らを受け入れる義務がある。勿論、それは言語や文化の違いによるストレスも同時に受け入れる事であり、「負担」と形容されてしまう事もあるだろう。しかし、だからといって難民申請を出すのを渋って、都道府県を跨ぐ移動の制限を課すことや、就労を認めない、大学に入学できないなどの仕打ちを、既に傷を負っている彼らに与える事が正当化されるはずもない。最近のニュースでも日本に来たウクライナ難民に対して「難民貴族」呼ばわりする人がいることが取り立たされていたが、そもそもそんな言葉を創り出した己の無知と肥大した利己心を恥じるべきだ。他者を排斥する言動はその鋭利さと反比例するかの様に日常にありふれている。

「何をもって日本人なのか?」
劇中に形を変えて何度も観客に投げかけられるこの問いに何と答えられるだろうか。

日本で生まれたこと?日本語を話せること?日本に住んでいること?見た目が似ていること?日本国民と認められている親を持つこと?日本文化が好きなこと?ラーメンが好きなこと?政府から認められた身分証明書を持っていること?日本以外に帰る場所がないこと?

この映画で、サーリャのお父さんは「クルド人」である事に誇りを持っている。「クルドはここにある」と胸を叩き、伝統的なクルド料理を食べさせることで子供たちにもクルドに対して誇りを持つことを求めてきた。しかし、「クルド人」である事にこだわるその姿勢は一方で、サーリャが学校で話題になったW杯について「どこの国を応援してるの?」と聞かれた時に日本と答えられない原因であり、小学生の息子には「自分は宇宙人」と言わせてしまう苦しい帰結をもたらしてしまっている。伝統・文化といえば聞こえはいいが、サーリャは狭いクルド人コミュニティの中で、既に将来の結婚相手を大人たちによって決定されていることに気味悪さを感じており、その姿は国や文化はその人の誇りやアイデンティティであると同時に、逃れられない呪いにもなりうることを観客に思い出させる。自分をよそ者・部外者と卑下する事で感じる疎外感と故郷を想う気持ちに挟まれた、割り切ることができない感情の狭間で彼らは生きている。
しかし劇中で印象的に描かれるように、法律はそんな割り切れなさに容赦しない。国籍、戸籍、在留資格、難民申請などの規則は、人間の複雑な心情など意に介さず、効率的に簡単に管理をするための印を人々に刻み込む。「あなたは○○です。」と。”みんな”のためにと作られたルールの想定する”みんな”の枠は”みんな”が想像するよりずっと小さいということを、サーリャ一家の自由を保障する在留カードに次々と穴をあけていくペンチの音が告げている。

人種が人間によって作られた物である様に、「国」や、「文化」「歴史」「宗教」もみな人が作った物である。それらは決して普遍的で固定化された物ではなく、取捨選択が可能な物としてうまく使う事が大切なのだろう。絶対的な枠組みだと思っていたものが実はただの言葉でしかなかったと気づく事、それは自分の生きる小さな世界マイスモールランドを心地よい場所に変える第一歩となるに違いない。

争い合って壊れかかった
このお茶目な星で
生まれ落ちた日から よそ者
≪中略≫
私の居場所は作るものだった

「喜劇」星野源

はたから見たら、ただの二人に思えるだろう。私たちが何者かを示す腕章や印はどこにもついていないのだから。

「ベルリンは晴れているか」 深緑野分

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