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エッセイ/スラムは消えたのか?

昨夜は、科学映像館のサイトから、「スラム」(1960年)という資料映画を観た。

私は映画――さらに言えば映像・音声メディア全般――が大の苦手だ。等質に、無情に侵略してくる情報の大波に、思考と感性がついてゆけない、潰されてしまうからである。私的に観なければならない Youtube 動画は、0.5倍速か0.75倍速に下げる。溢れそうになったら、止める。

世の中は止まらない、こちらから逃げるしかない。見たふりで、聞いたふりで、考えるふりで、おもんぱかるふりで、50種類ほどの相づちで、100種類ほどの顔つきで。つながりと温かみを喪った世界とは、減速も一時停止もない映像・音声メディアである。

『生きづらさ』の魔物に追われ、みずから命を絶った人を、そのきわでなんとか踏みとどまる人を、いまも魔物の気配に居たたまれずおびえる人を、深く深く思う。

そして、どうにも鈍いあたまでいぶかる。生きてゆくとは、むかしからかくも過酷で味気ない営みだったか、と。魔物の正体は、肥大した影であった、とはよくある話で、そのようなことを考えたいのに、不調のこの身体こころは言うことをきかない。

*

話は、てんであべこべ・・・・になった。「スラム」を巡ってであった。

廃工場跡、川べり、橋の下、あるいは路上に、とりあえず・・・・・、人たちが生きていた。

栄養、衛生、医療、教育、どれも60年後のいまから見れば、願わしいものからは、ほど遠い。だが、これは確かに、私たち・・・がかつて保持した生のかたちだ。遠いかなたのどこかの星、の話ではなかった。これを、あるいは「毒現実」だと目を背ける人、目を覆う人も、少なくないだろう。

私は、人たちが映るのを待つ。放恣ほうしに満ち足りた顔ではない――私たち・・・のように。狡猾こうかつに張りつめた顔でもない――私たち・・・のように。何と呼べばよいのだろう。

ベーゴマに興ずる子ども、金物のバケツで水を汲む女性、内職に勤しむ親子、そして男たち――だれもが、「毒現実」のまなかで、懸命な顔をしている。一生懸命、そんなたるみ切ったことばではない。出撃前夜の読書、そのようなひょんな妄想がうかぶ、もし彼らから、いまを生きている、ということばが出たら、私はそれ以上無く、その真意を体得するような。

生きることは、むろんハードモードであったに違いない。一方で、『生きづらさ』はどうだったのだろう、と――だがここから先は、どれも締まりのない妄念だ。

ふと、「毒親」という、毒ことばが浮かぶ。いわゆる毒親は、どの時代にもいたであろうが、それは毒現実の陰に隠れるようなものだ。思えば、セクハラ、パワハラ、なにハラ、どれもが毒現実の子だ。

敗戦、壊滅という毒現実から、池田勇人、佐藤栄作、田中角栄、中曽根康弘、と経て、昭和のうちにつぎつぎと、毒(と思しきもの)は落ちた。ように思えた。

人のなかに遍在していた貧しさは、著しくいびつに、その均衡を失った。発展モノカネ幸福タマシイの(無)関係に、時代があまりに無頓着であったためだ。

それはいまも、たいして変わらない。

*

そのような、まったく取りとめのない思いにもかかわらず、私は「スラム」に取り残されることなく、スラムと人々は淡々と撮され、映画は淡々と終わった。……音響は、かなりうるさかったけど。

この恩恵は、昭和33年の彼らが、ただ懸命であるからかもしれない。そして、令和5年の私たちの大半が、『こうではない』とは、どうではないのか。

しばらくは、そればかりを考えるであろう。


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