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[書評]神は必要か。天国は要るのか。我々という観念は時に危険ですらある。

ダニエル・エヴェレットの著作『ピダハン』は、キリスト教宣教師/言語学者の彼が、アマゾンの少数民族ピダハンと暮らした約30年にも及ぶ生活録です。

ピダハンの特徴は言語にあります。彼らが使う言葉には「右/左」という概念がありません。否、それだけでなく、数や色の概念も、過去形・未来形の表現もありません。「すべての」や「それぞれの」に相当する語も、また当然ながら「神」という観念も存在しません。彼らの言葉には、われわれが使用している言語のような細かさがないのです。

そんな彼らに、エヴェレットは宣教を試みます。しかし、それもうまくいきません。むしろ幸せに生きる彼らに感化されたエヴェレットは無神論者になってしまいます。「魚をとること。カヌーを漕ぐこと。子どもたちと笑い合うこと。兄弟を愛すること」。これら一つ一つを心底楽しむピダハンには、クリスチャンが説く「天国」や、バラモンが説く「三世の存在・輪廻」など必要ないのです。

むしろ「過去」があるから人は後悔します。「未来」があるから人は不安になります。エヴェレットはそれに気づかされ、要らぬ概念や観念が人を不自由にしていることを悟ります。そして回心する。キリスト教の世界観よりももっと深い、根底的なところにある大切な何か。それをピダハンは確かに大事にしているのです。

ピダハンは現実主義者の集団です。基本は目に見えるものだけを信じます。厳しい自然の中で生きていますから、頼れるものは自分だけとも思っています。その一方で、いざという時の助け合いは「お互いさま」の思想を基とし、相互扶助に躊躇はありません。強いつながりで結ばれています。野生の中で、常に死と隣り合わせに生きている彼ら。彼らはそれでも、得も言われぬ幸福感に満ちています(「それでも」という見方こそ、われわれの偏見です)。

本書を読むと、以下のような問いが立ち上がります。

「言語はどこまで必要なものなのか?」
「宗教や神話は必要なのか?」
「直接、知覚していない情報にどこまで意味があるのか?」
「そもそも幸せとは何か?」

ピダハンからすれば、メディアの情報に踊らされている私たちの日頃の作法は、「狂気の沙汰」と映るでしょう。同じ時間に同じ場所に集い、同じ場所で同じ目的に向かって各人が機能的に協同する。企業で起きているその光景は、よく考えれば奇妙なものです。何に取り憑かれて私たちは同じような動きをしているのでしょうか。もっと自由でいいのでは、という考えが頭をよぎります。

まして「正義」だの「成功」だの「勝利」だのといった観念に突き動かされている人を見たら、彼らは「人生をムダにややこしくしている」と思うでしょう。あるいは、その所業が理解できないかもしれない。

通途の社会がかかえる「余計な」複雑さ。その贅肉の「贅」性が鮮明化するのが本書です。人生って、もっとシンプルでいいんだな。本書から、そんな安心感が得られます。断捨離の思想、ミニマリストの思想とも共鳴するかもしれません。

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