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ものが溢れる時代の、ものづくりの意味①

 先日、福井で行われた renew で出会った、東北スタンダードの岩井君と、オンライン飲み会をすることになった。パソコンの前に座り、佐渡で買ってきた日本酒どぶろくろくろ舎の酒井さんの器を持って、乾杯ぃ〜!からスタート。岩井君と話せることも、美味い日本酒を大好きな酒井さんの器で飲めることもとてもテンションが上がるんです。そこで話したこと、思ったことをベースに僕の考えを整理しようと思う。

さて、「ものが溢れる時代に、ものづくりを続ける意味は何か」。ものが溢れているにも関わらず、職人は作り続けなければ生活が成り立たず、商人は売り続けなければ、商売が成り立たない。マクロな視点では、限られた資源を過剰に利用し続けることと、いらなくなったら捨てる / 捨てないけど、棚の奥で眠ってもの使用しない。ということは、資源の配分や有効活用の観点からも非効率的と言える。

ものづくりの21世紀のコンテクストとは?

1つのものを何十年も使い続けるより、短期間で買い換える、いわゆるスクラップ・アンド・ビルドのモデル(程よいタイミングで使えなくなる)でものづくりをした方が、経済が循環し、職人の生活は確かに豊かになる。

しかし、生活に不可欠なニーズが満たされている、いわば消費が飽和している社会、そして生命を育む地球システムへの負荷が限度を超えている(エコロジカルフットプリント等の指標から)という時代背景の中で、ものをこれまで通り作り続ける意味は何なのだろうか?

生産、利用、廃棄の過程で環境に過剰な負荷を強いることが、「生きていくためには、仕方ないこと」と説明する大人もいる。

でもポイントはそこではない。このままの経済合理性に基づく思想と、仕組みでものづくりをしていたら、近い将来、ものづくりができなくなる可能性があるということを考える必要があると思っている。

つまり、生産過程では、資源管理や環境負荷の考慮、労働環境の管理、利用過程では、使用方法や使用頻度の設計、そして、使用を終わった後の廃棄や処理の方法までを包括的にデザインされることが21世紀のものづくりにとっては必然となってくる。

GDPの成長的思考からの脱却

僕らは目標を変えなくてはならない。話は少し遠回りするが、
GDPの起源は、1930年代後半にアメリカの議会からの依頼で一国の国民が国内外で生み出した所得(年間所得)を表すために、経済学者のサイモン・グネッツが考案したのが、後にGDPへの変化するGNPだそうだ。競争的な産業経済や国内消費の維持を図り、国家の経済的成長と目標を数値化する上では大変便利だったのだと思う。日本で導入されたのは、戦後の1946年だとか。まだものが不足し、敗戦後の焼け野原から国際社会に復帰し、国民の生活が発展をするためにも欠かせい指標/目標であったのだと思う。

しかし、高度経済成長期、安定的成長期を経て、もはや量的な成長が生活をより豊かに、幸せにできなくなってきた。所得が一定のラインを越えると、所得と幸福度との相関がなくなることからも、世界第3位の経済大国に住む日本人の幸福度が、世界幸福度ランキング(GDP、平均余命、寛大さ、社会的支援、自由度、腐敗度といった指標)では、58位/156ヶ国である(一人当たりの名目GDPでは、世界26位)ことからも、これ以上お金で幸せを買うことが難しいことを僕らは知ってきた。

また、無縁化する社会の中で、100万人以上いるとされるうつ病患者、減少傾向にあるとはいえ年間2万人を越える自殺者(日本では、毎日約57人が自殺している)、増え続ける孤独死者(年間3万人)、さらなる経済成長を求めることが、これらの問題の改善に寄与するかは疑問である。もちろん、課題はこれだけではない。拡大する経済的格差や、なくならない貧困、限界を超えている環境負荷など。GDPを追うことで生まれる歪みを克服する必要が出てきているし、もはや僕らの社会にとって、人々が幸福になるための指標にならないことにも気付き始めている。

人間らしさを取り戻す時代。 必要な質的成長とは?

約80年も使い続けてきたGDPという指標は役割を果たし終えたのだと思う。21世紀は、量的な成長から、質的な成長を遂げる時代だ。経済的成長に伴い、後ろにおいてきた、温かく利他的である「人間らしさ」や、相互扶助を実践する「共同体感覚」、「自然や動植物に対する敬意」、貧祖・不足の中に心の充足を見出そうとする「わび」や、閑寂さのなかに、奥深いものや豊かなものが自ずと感じられる美しさ「さび」、ものを大切する「勿体ない」といった日本人が歴史の中で積み重ね、日々の暮らしの中で、孫から親へ、親から子へと何世代にも渡って、つなぎ続けてきた感覚の重要性に再び気づくのであると思う。それらを測る指標も少しづつでてきた。代表的なのは、ソーシャルキャピタルだろうか(この話もまたしたい)

日本のものづくりが、質的成長の思想的な基軸を形成する

かなりの遠回りをしてしまったが、こういった人間らしい感覚を再び蘇らせてくれることに、日本のものづくりに僕は、大きな期待を僕は持っている。ここでいうものづくりとは、柳宗悦が「手仕事」という言葉で表したような、中小規模で人の手によって作られる陶磁器や漆工、染め、織り、籠、刃物などの生活の中で活かされている(用の美が備わっているもの)や、同様な規模で自然に寄り添ってつくられる酒や味噌、醤油、麺などの日本古来の食品を、自分の中でイメージしながら書いていた。

経済的成長に伴い、後ろに追いてきた「人間らしさ」、その思想や感覚を取り戻すための、ツールとして、日本のものづくりに大きな可能性が秘められているのではないか。そんなことを思っている。

思想が行動になる

2000年を超える歴史が脈々と人々の生活の中で繋がれている日本文化にはとても誇りを持っている。同時に僕が生まれた世代では、既に失われてしまった文化や、育った環境では経験してこれなかった文化にも関心がある。同時に、今後さらに失われていく危機感と、未来を創れる可能性を感じている。僕らの行動が変わらない限り、未来社会は生まれていかない。それを創るヒントは、過去にあると思う。

尊敬する柳宗悦は、かつてこんなことを言っていた。;

吾々は伝統を大切にせねばなりません。それは単に昔に帰ることではなく、昔を今に活かす所以であります。伝統を正しく育てることによって、新しい日本を着実に建設せねばなりません。(「手仕事の日本」)

これは、戦時中に細々と執筆したそうだが、
「伝統を正しく育てることによって、新しい日本を着実に建設せねばなりません。」という言葉はとても強く響く。新しい日本、僕らが生き抜ける21世紀の日本を建設するために、過去から学ぶことが多くあることを示唆されているようだ。

次は、日本のものづくりの思想を、21世紀のコンテクストで、どう行動に移すかを記したい。思想と仕組みが組み合わさってこそ、機能するからである。


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