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親のこと【エッセイ】六〇〇字

早大エクステンション「エッセイ教室」春講座。五回目(全八回)のお題、「親のこと」。さいきん母のことを続けて書いて来たので、たまには、父のことを。(汗
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 父方の祖母は、家事が苦手で、ガサツなひとだった。小三の頃。父が入院中に預けられ、二人でひと月暮らしたことがあったのだが、ある日。「牡丹餅だぁ、喰え~」と、卓袱台に茶碗を置き、もち米を盛った上にアンコを乗せ、「腹に入れば同じだべさ」と、言うくらいに。
 次男の父は、長男を溺愛する母親から差別され、気を引くためか、小さい頃から外で喧嘩ばかりしていたらしい。関係がさらに悪化し、家出も同然に、十六歳で、海軍に志願した。
 終戦の翌年、見合結婚。母親とは逆の姿を母に求め、厳しかった。外出もほとんどなく料理と拭き掃除をする、母の姿があった。長男である私には、鉄拳が飛ぶことも。小遣いは、二歳違いの弟と、同額。毎年増額されても、弟の二年前の金額よりも、少ないことになる。
 母は、父からの暴力に耐え忍びながら、私を東京の大学に入れてくれた。だが、二年の時、急性劇症肝炎を患い、五十歳で、急逝。
 翌年の夏休み。母のいない実家に戻った時、父と二人で初めて呑んだ(そして、最後だった)。母親がいかに変わったひとだったか、兄弟を差別していたか、そして終戦が遅れていたら、人間魚雷で、突撃していたことも、話してくれた。ビールひとケースを飲み干し、瞼が落ち始めた頃。父は、呂律が回らないままに、つぶやいた。
 「天ちゃん・・・万歳って、死んでいった・・・というのは、ウソだ。みんな・・・オフクロ・・・バンザイ、って、叫んだんだ ——— 」と。

(おまけ)
またまた、コラム比較。サミット翌日の二紙。

東京新聞朝刊(5月22日)


朝日新聞朝刊(5月22日)

コラムでは触れていませんが、ゼレンスキー大統領のこの言葉が刺さりますね。
「(原爆資料館には)本当に恐ろしい写真がたくさんある。原爆投下、死の直前の子供たちの写真、ウクライナでも多くありますが、これを見ると涙が止まりません。正直に言います…バフムトの破壊された風景と広島の被災した街はとても似ています。でも今広島は近代的で生命にあふれた街です。バフムトも将来このように再建されることを願っています」

ところで、なんだったのだろうね、G7広島サミット。「仲よき事は美しき哉」ではあるけども、裏には「核抑止力」という旧態依然とした考え方が、根強く存在する。ヒロシマの地であっても。それでも、支持率が上る。世論は、やはりパフォーマンスに弱いということか。嗚呼・・・。

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