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暴言で野菜を食べられなくなった頃の話

前回、私が牛蒡を二種類買う理由について述べてみました。
私は元々、牛蒡の味が好きなので、理由や動機が後押しすれば、生活習慣として定着します。
けれども、私はかつて、野菜が全く食べられない時期がありました。
牛蒡を含めて、野菜が食べられなくなったのは、些細な暴言の蓄積によるものです。

知識は悪用するためのものでは無い

野菜は、その概ねが水分、ビタミン、食物繊維で構成されています。
野菜には糖分があまり含まれません。

けれども、「牛蒡なんかより良いものを食え」と暴言を吐いても良い理由にはなりません。

脳の栄養は糖分、これは確かな話です。
俗説の域でなく、医学上の知見として確かです。
けれども、「脳に栄養が足りていない」などと、暴言を吐いても良い理由にはなりません。

知識は、悪用するためのものでは無いのです。
医学も、栄養学も、ありとあらゆる知識は全て、悪用してはならないのです。

些細な暴言の効果は絶大

知識を悪用して、些細な暴言にしてしまったら、その効果は絶大なのです。
現在では、微細な攻撃の効果が注目されるようになってきました。
マイクロアグレッションと呼ばれています。
些細な暴言もこの一種です。

私が野菜を食べられなくなった頃には、そういう概念が知られていませんでした。
当時、一定以上に広まりを見せていればどれだけ良かったかなと思います。

些細な暴言は「そんな些細なことでそこまで激怒しなくても」という事なかれ主義者が出るため、卑劣な悪人がやりたい放題するのです。

些細な暴言は、決して認めてはならないものですが、事なかれ主義者はトーンポリシングによって認めさせようとします。
トーンポリシングは差別や暴言の維持をするのに極めて有効な手法です。
白人から黒人への差別が、現在でさえ維持されてしまっていることからも明らかでしょう。

暴言の効果

些細な暴言、また、暴言に対する異議への縛り、そういったものは疑念を生みます。
野菜なんかより糖分を取らないと、脳への栄養が足りないのかな、と思わせることになります。
そんなはずがあるわけがないのに。

暴言、小言、評論、感想、疑問、そういった言葉の暴力は、いとも簡単に疑念を生み出すのです。
そして異議への縛り、トーンポリシングは、異議を述べることへの諦念を生み出せます。

疑念と諦念は、極めて簡単にセルフネグレクトを生み出せるのです。

私の場合には、野菜がなんだか食べられなくなるということでした。
野菜が食べられなくなる。
週に何度か嘔吐する。
週に何度も嘔吐する。
血液を吐く。
地獄でしかなかったわけです。

当時を振り返って

今から思えば、好きな野菜を好きなように食べていれば良かった。
「牛蒡食うなんて捕虜かよ」なんて暴言をほざく賢しらぶった小賢しい愚物に賢さは無かった。
そう思います。

読者の皆様は、好きな野菜を好きなように食べてください。

ただ、牛蒡は美味しくて体に良いものです。
牛蒡に限りませんが、体に良いものは食べていると味覚が変わってきます。
体に良いものを脳が欲するようになってきます。

牛蒡以外でも良いですが、牛蒡だと嬉しいです。
牛蒡を好きになってもらえたら嬉しいです。
好きなように食べてもらえたら嬉しいです。

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