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あなただけが、なにも知らない。#19

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 今、彼女は靴に泥を付けたまま食事の支度をしている。僕は食欲はなく、何も食べたくなかった。


 キッチンから聞こえてくる音。食材を切る音。それらの音が、いまの僕には不快だった。


 僕の靴にも泥が付いている。拭きとらなければ、そう思った。でも、出来なかった。空が見たくて顔を上げた。そこには当たり前に天井がある。僕は、どうしてここに居るのだろうか。

 僕は、どうして生きているのだろうか。

 今まで、幾度となく浮かび上がってきた疑問が、また僕を襲った。答えの見いだせない問が、あの頃と同じように突然目の前に現れる。僕はそのせいで、いつも苦しんでいたんだ。

 彼女は、いつもの低いテーブルを拭いている。その上に夕食を置くと食器は窮屈そうで、中からは白い湯気が上がっている。そこに温もりがあるのを感じた。


 霧がかった記憶の中でだけ、母さんの作る食事はいつも温かかった。悲しくて泣いたときも、僕の食事はテーブルの上に布が掛けられ用意されていた。母さんは……僕を嫌いなはずなのに。そう思いながら一人、冷たくなったご飯を食べていたんだ。


 今、僕の目の前に温かな食事が用意されている。彼女が作った本物の温かな食事。彼女は僕が嫌いなはずなのに……。


「いただきます」南海はそう言って手を合わせた。続けて、「立って食べる気?」と、いつもの口調で明るく言うと、ゆっくり食べ始めた。


 僕はソファーに座りった。
「いただきます」言って、スープに口を付けた。「温かい……」


 目の前が、ゆっくりと滲んでいくのが分かった。


 その日、僕はいつものように食器を洗った。いつもの様に背中に視線を感じたが、あえて振り返らなかった。食器を洗い終え、僕はソファーの上で横になった。

 彼女は倉庫に行かず、二階へ上がった。


 僕の中から抜け落ちたはずの記憶は、頭の片隅で寂しく佇んでいたのだろうか。それとも表に出て来るタイミングを見計らっていたのだろうか。今まで見えなかった場景が僅かに見え始めたことに僕は戸惑い……怯えていた。

 今日のソファーと毛布は、僕の体を締め付ける。とてもきつく不快で何故だか冷たく感じた。なかなか寝付けなかった。


 古びた家が脳裏に浮かぶ。屋根が低い、狭い家。庭の雑草を見上げていたのを思い出す。
 いつからだろう、僕が母方の祖母に預けられたのは。
 祖母は優しかった。いつも僕の傍に居てくれた。花の名前や虫の名前。色々なことを教えてくれた。小学校の夏休みの自由研究で学年代表に選ばれたのも、祖母と一緒にやった作品だった。
 夕ご飯はいつも一緒に作った。祖母は特に食べ物の大切さを教えてくれた。

「野菜を食べて肉も食え。菓子を食うなら食後」
 それが祖母の口癖だった。

 買い物にもよく付いて行った。祖母は時折、道行く人に何かを言われ、執拗に頭を下げていた。僕も真似をして頭を下げようとすると、「お前はせんでもええ」そう僕を叱った。そんな日は決まってソフトクリームを買ってくれた。いつもは食後にしか甘い物は食べられないから、直ぐに溶けてしまうソフトクリームには、なかなかありつけなかった。だから、嬉しかった。

「そんな必死で食べんの」
 僕を見ながら祖母はそう言って、よく笑っていた。


 一度、祖母に父さんが居なくなった理由を聞くと、仕事で遠くに行っていると言い、最後に決まって、「あれは父親じゃないけんね」と言った。

 母さんの事を聞くと、目に涙を溜めて口を噤んだ。これは聞いてはいけないことなんだと、幼心にそう思ったんだ。暫くして、父さんは違う女性と結婚をした。そう書いた手紙が僕宛に届いた。祖母が教えてくれた。僕は、いつ戻って来るのか気になったが、祖母に悪いと思い訊かなかった。否、訊けなかった。

 母さんからは、いつまでも何の連絡も無かった。

 どうして、父さんと母さんが僕の前から居なくなったのか。どうして僕は祖母と二人で暮らしているのか。その理由はいつまでも分からなかった。そして、もう、どうでも良くなって考えるのを止めたんだ。だから、二人の事を忘れてしまったんだ。僕は……、そうやって忘れようとしたんだ。

 テレビから漏れる光と音で目を覚ますと、祖母が急いでそれを消す姿は今も覚えている。

 学校の行事には、祖母は必ず顔を出した。祖母と周りの親との違和感をクラスメイトが気付くのに、時間は掛からなかった。背の高い人達に挟まれた祖母は、僕が席から後ろを振り向いて見る度に、我が子を見守るような穏やかな顔で微笑んでいた。


「別に無理して来んでもいいよ……」

 そう言う僕の顔を見て祖母は、「恥ずかしいんじゃろ? ……それでええ」と、優しく、笑って言っていたのを覚えている。


 中学を卒業して、僕は家を出た。今は小さな町工場で働きながら、定時制の高校に通っている。
 上京してから直ぐに、祖母は体調を崩し、入院をした。

「ワシの葬式には出たらいかんからね」と、僕に何度も言い聞かせた。

 少し大人になった僕が、他人の白い目に晒されるのを嫌ったのかもしれない。

 訃報が届いた。僕は祖母の言いつけを守り、その日は……いつも通り仕事へ行ったんだ。

 暫くして、郵便受けに手紙が一通入っているのに気が付いた。祖母からだった。

 残機削って書いたのだろう。

 そこには……

 いつも、見守っているからね。頑張りなさい。

 とだけ、書かれていた。


 波打つ字は、筆圧がなく読みにくかった。祖母は僕に、最後まで優して温かく、そして護ってくれた。
 その時、僕はどれくらい涙を流しただろうか……覚えていない。溢れる涙は、いつまでも本当に……本当にいつまでも、止まらなかったんだよ。


 あの日から、僕は……


 本当に、独りになったんだ。


 ……つづく。by masato

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