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あなただけが、なにも知らない。#15

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 家の中は外から見るよりも広く感じた。毎日きちんと掃除をしているのか、絨毯には外から連れてきた泥や小石、草の切れ端が想像よりも少ししか落ちていない。それらを塵取りで拾い。元の場所、いわゆる外へ返した。その後、テーブルを拭き、窓を拭き、床を拭いた。窓から射し込む陽の光が、湿った床に届いている。

 窓から外を見た。そこから見える小道は橋を架けたように窓から伸び、枯れ枝の束を運んだ倉庫まで繋がっている。その両脇は、誰かが草花で装飾した橋の欄干の様な美しさだった。僕は、その光景に……気味の悪さを感じ、何故だか胸が騒いだ。

 ……絵。

 ふと、あの絵が脳裏を過った。あの倉庫で見た絵は、いつ描いたのだろう。彼女はあの時、なぜ泣いていたのだろう。そして、僕もあの時、なぜ涙が出たのだろうか。彼女が泣いていた理由を聞きたいと思った。そうすれば、僕が泣いた理由も分かるような気する。

 ……胸が苦しくなってゆく。

 考えるのをやめた。

 二階の掃除が終わったのか、階段から彼女が降りてくる。首筋に汗が見え、少し疲れた様子ではあったけど、満足そうな表情をしている。

 僕の方をチラッと見た。掃除道具を持っていないのを確認したのか、一人で道具を直しに行った。

 一息ついて、僕と彼女はソファーに腰を下ろした。

 掃除は一時間半くらい掛かった。彼女は、なかなか終わらなかったが、僕は早く終わっていた。無論、そのことは黙っている。

「水持ってきて」

 彼女は僕を試すように言っている。僕にはそれが何となく分かった。

「水とコップを取ってくる」

 僕は、彼女にそう伝えた。

 見慣れた冷蔵庫の扉を開けると顔に冷気が当たった。体温が微かに下がるのを感じながら中に入っていた水を取り出し扉を閉める。食器棚からコップを手に取った。

 リビングへ戻り、僕がコップに水を注ぐ。コップの中で小さな波が出来ている。彼女はその様子を好奇心で満たされた子供の様に眺めていた。それなのに彼女の表情は、少し寂しげだった。

 掃除をしたはずの部屋に細かな埃が舞っている。それらは、誰に言われたのか、僕と彼女の間で、ふわふわと漂っていた。

「どう?」

 今度は、満足げな表情をして彼女は言った。

 何が、どう?なのか、僕にはさっぱり分からない。

「どう……とは?」

「気持ちいいでしょ。部屋は綺麗になったし。空気が変わったような気がしない?」

 僕は返答に困った。こういう場合はどう言えばいいのだろう。そうだね、空間が歪んだみたいだね。

 とか。

 そうだね、一週間は掃除しなくてよさそうだね。

 とか言えばいいのだろうか。

 色々迷ったあげく、僕は、「そうだね、埃が陽の光に照らされて、キラキラして綺麗だね」と言ってみた。彼女の眉間に皺が寄るのが分かった。

 急に視界が狭くなるのを感じた。僕と彼女の間に漂う数々の埃からの視線を僕は一心に受けているような気がした。窮屈になり、汗ばんで来る。見られているような恐怖が僕を包む。広いリビングの中で、僕のこの場所だけが狭く思えた。

 僕は両手で抱えられている。そして、急に息苦しくなる。目の前に小さな気泡が幾つも見える。その気泡は下から現れ、頬を伝い上がって行った。僕の手足の動きは、まだぎこちない。放たれた僕は、何処に行けばいいのだろう……わからない。大きな不安の中でもがいている。どこまで行けばいいのだろう。体が浮いているようで、気持ちが悪い。

 急に抱き抱えられる。息はしていいのだろうか。僕は、顔に纏わりつく物が何か知らない。少しずつ、辺りが見え始める。明るく、とても眩しかった。視界が開けると、そこには笑っている顔があった。顔の上半分は白く濁って見えない。下半分には口が見えた。

 笑っているこの人は、誰だろう。

 僕は、大声で泣いた。

「また、魚みたいに口、パクパクしてたよ」

 彼女の声に気付き、僕はソファーから上半身を起こした。

「毛布も掛けないで寝ると、風邪引くよ」

 体には毛布が掛けられていた。彼女が掛けてくれたのだろう。

「ありがとう」

 胸の鼓動が大きく一つ鳴った。

 彼女は、朝食を低いテーブルの上に並べ始めている。テーブルの脇に濡れ布巾が置いてあった。コーヒーのいい香りがする。

 僕は、朝の掃除から後の事を思い出そうとしていた。埃が目に付き、窮屈さを覚えてから先の記憶が……なかった。

「……昨日、あれから、なにしたっけ?」

「あれからって?」

 彼女はお盆の上にあるコーヒーをそっとテーブルの上へ置いた。

「昨日の朝、掃除が終わってから……」

「掃除の後? あぁ。一緒に散歩したじゃない。小川を見たら水嵩が減っていて魚が見えたでしょ。魚が泳いでるって言っていたじゃない。それから私は、庭で作っているオクラとかトマトを収穫したり、その野菜を調理したけど……」

 彼女は僕の顔を疑う様に覗き見て言った。

「……そうだね」僕は覚えていなかった。「僕は……。僕は何をしてたかな?」

「さぁ、リビングに居るのは何度か見たわよ」

「そう……」

 僕は俯き彼女の言葉に耳を傾けながら、言われた風景を頭の中で描こうとしていた。

「覚えてないの?」

 彼女の声の色が変わった気がした。

「いや、そうじゃない。ごめん。ありがとう」

 僕の胸には、やっぱり痛みが走った。

 ……つづく。by masato

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