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庭いじりの楽しみ:松の剪定とイエナプラン、教育を考える

庭師のKさんは僕の友人だ。母が亡くなった後で、Kさんが庭に手を入れるときに弟子として働かせていただいている。雪折れした松が伸びてきたので切り方を訊いた。結局は、大事なことはどう伸ばしたいかをはっきりと知ることである。未来の価値を信じるということだ。大げさである。

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庭師さんには折れた時は、バッサリやると言われたが、どうにもそういう気持ちにならなかった。先日は松葉杖をさせて、今日は芽が伸びてきたので頭の重いところを剪定した。水の上がりが足りないようで枯れ始めている枝もあった。

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仏前花

妻は草月の師範(看板だけ:教えてはいない)であるが「生けた花」を見るとやはり若い頃習っただけのことは有る。僕が生けた花を褒めてくれることが有る。素直に嬉しいものだ。普通のことでそんなことを言われると、「お前に何が分かる!」と怒鳴り散らすぼくが、花に関してはそうはならない。面白い。

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この季節の庭は面白い。派手には咲かないが「ここあそこ」と可憐な花がつく。以前は墓にも仏壇にも花を買っていたが、今では庭のものを摘んでいく。そちらのほうが財政的にも嬉しいし、「おや咲いたかね」とあちら側で微笑んでいる顔が見える。

妻にどうすっれば綺麗に生けれるかと訊いたら、「花がどう生けられたがっているか考える」と言われた。ありがちでは有るが、納得した。ぼくが思ったとおりに生ければ良いのだ。

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今年は、庭師さんに僕の手が届くところまでは頼まないことにした。雪折した松が葉に水を上げる力が無いのか、枯れてきている。

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そこで剪定することにした。折れた場所も痛々しいのでネメデルして水草を巻いた。

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ここから枝が出てきたら面白いのだが。まっすぐ上に上がっていた枝が下に向かって折れた。これもまた趣がある。

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僕は「教育」を考える

子どもたちが小中高校と制度の段を上がっていくのを見て、自分の時代を思い出し、時に大暴れして、すでに上の子は働き始め、下の子は就職に苦しんでいる。


イエナプランに関しての本が届いた。

少し読んで、先に進まないままだ。どうも論者のスタンスに物足りなさを感じるのだ。

僕は「教育」には致命的な欠陥があると思っている。残念ながらその欠陥を言葉にすることは(まだ)出来ない。教育の臨床家(専門家=商売人)がその欠陥をどう受け止めているのかを知りたかったのだ。

おそらく、教育する側が、自分の間違いをどう是正していきながら本質的な(人や社会のあり方の)理想に近づけるかという問題なのだと思っている。では、その共通の価値というは誰がどこで決めるのかということが問題である。

教師(官僚的な輩)は自分が無誤謬であり教育学が示すマニュアルどおりに振る舞えばいい、それに従えない生徒は病気(ADHD)か無能(学習障害)なのだから、薬もっるか学校からはじき出せばいいと思っているのだと感じる。もちろん素晴らしい人もいるが、上の言うことの歯向かえば生涯年収が大きく変わる。子供が自殺しようが構わない、自分の生活が破綻したら自分が自殺しなければならない(比喩ですよ)。

1980年代、子供に薬を処方していない時代、僕の高校時代は、大変な学級崩壊の嵐であった。あの時代に、鍵があると感じる。日教組の力が失われ、社会の「どんでん返し」がないことが明確になった時代である。(注)

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生命に共通の「律」

松の木にとってみたら、雪で折れるのも、僕が枝を挟むのも同じことだ。こちらの伸びたら嬉しくないとかアチラに枝を張ってもらいたいとか眺めながら考える。水の吸い上げが悪くなれば葉が枯れる。

子供にとっても、守ろうとする親であろうが、伸ばそうとする教師だろうが、焼きそばパン買ってこさせるイジメる奴らだろうが、皆同じである。関係性の中で人は生きる。

そして、大人と言われる状態まで生き延びてからは「会社という庭」「家庭という庭」で利用したりされたり忙しい。パワハラ・セクハラ、イジメに恋愛、人が人を苦しめているのだ。昔は飢饉や疫病で「人」は死に、今は市場を通じて他人を豊かにするために生かされているのだ。

教育学者は学校という制度しか見ない。

社会全体を見ることがないのが問題である(注)。イジメの問題は、「他人を利用して自分が楽をする」というヒトの「律」である。ヒトは学校に行っていても会社に努めていても、施設に入ってしまっても、変わることはない。子供は大人の幼虫ではない。おそらく言語を習得する時期に始まり、人の社会全般で見ることが出来る。社会(コミュニティ)の豊かさ、財のあり方、相互のヒトの関係性によって現れ方は変わるが、共通のものだろう。無人島に墜落した飛行機の生き残りと、ウオールストリートでは現れ方は変わるが共通の「律」を見ることが出来る。

ヒトは、メタモルフォーゼを繰り返しながら刻一刻と変わる現実に向き合いながら生きている。

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「庭」という生命のコロニー

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母は、ディレッタント(道具好き)であった。仕立板や和裁道具、厨房道具は金がかかり、素敵なものばかりである。時折、手入れする。僕は母の血を引いている。商売道具を揃えるのは楽しいものだ。仕事自身が自分の人生の一部なのだ。僕もごっそりマウスやキーボード、パソコンが有る。

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落とした枝葉は捨てない。根本において石を乗せる。粘菌が分解をして、マイクロバイオームが代謝していく。植物というコロニーは「身体の内側の海」に「デンプンや様々な代謝物」を満たす。根はその代謝物を外に分泌して、マイクロバイオームを呼び寄せて、内なる海に取り込む。

昨今の腸活などというお粗末な考え方には腹が立つ。身体に共生するマイクロバイオームは単に栄養素を作ってくれう工場ではない。ともに生きる相棒なのだ。動物も植物も「律」は同じだ。

葉は土に帰り、また「身体というコロニー」にに戻っていく。僕の庭が豊かなのは僕がともに生きているからだ。
家庭というコロニーで「共に生きるヒト」が持っている「律」と同じである。父母は亡くなって僕の内に生きている。庭の松を剪定しながらそんな事を考えた。

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社会を見ないのが問題である

僕が最初にイエナプランを知ったのは、ピーター・M・センゲさんの本である。この2冊はすごいとにかく読むことをおすすめする。


「どんでん返しのない社会」

僕は大学時代に憲法学のゼミにいた。
先生の言葉は、30年近い時を経て、色あせていない。悩んだ時に僕はここに帰ってくる。
いかに社会を変えることが難しいか、この言葉が証明している。
僕たちは変えることが出来るのだろうか。

【第1号 1986年卒業記念論文集】斎藤靖夫「どんでん返しのない社会」より
.....ところではじめに触れたコラムの最後には、「社会党の一部にさえ自民党との連合論が出るようになったのだから、企業はどんでん返しを心配しなくても」よくなったのだと書かれている。 学生生活の「最後」のために論文集を編み「どんでん返しのない社会」へ出て行く君達に、それでも君達は君達自身と他の一人一人の価値に繰り返し思いを致してくれと願うのは、幻想なのだろうか。人の良心は内にあり、従って人の価値は内にあり、たとえどんでん返しのない社会でも、その内なるものを社会構造的なものにするのは可能なのだと伝えることは、妄言なのだろうか。
「最後の論文集」を単なる記念碑にしないために。
どんでん返しというのは、アメリカの大統領交代による「官僚のトップの交代=猟官制」を考えればいい。トップが変わることで、官僚が隠してきた、多くの問題を解決するきっかけになる。まあ、昨今の官僚制度の巨大化はその機能を奪ってしまった。
かつての戦国時代の中国では、国が滅ぼされトップが変わると役人が一気に変わった。というか首をはねられて、新しい支配者の一族郎党が来た。
やがて国の支配が固定的になると巨大な受験体型が出来上がる。「科挙=官僚登用試験」である。世界のどこでも「律」は同じだ。
この事はいずれまた。

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コミュニティと言うのは共通の価値が決める

コミュニティというと、なにか集会をして決めたりするイメージが有る。しかし、それは違う。ヒトが集まれば常に存在する架空の繋がりである。バスに乗っている人々はそれぞれに目的地に行くと言う共通の価値を持つ。
そんな中で、「次に止まれボタン」を悪戯で押す子供はバスの乗客全体からの怨恨を買うだろう。
そこに教育やイジメの根源が有る。人は「イジメ・教育」のルールを暗黙の内に持つのだ。

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厨房研究に使います。世界の人々の食事の価値を変えたいのです。