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サッカーが与える絶望と希望。ティトー、ユーゴ内戦、そしてオシム 8/9

#8: なぜサッカーは憎しみを煽るのか

■政治利用されて続けてきたスポーツの大会

ユーゴで起きた一連の出来事は、スポーツと政治の関わりを否が応でも考えさせる。このような話になると、必ず引き合いに出されるのがオリンピックだ。事実、スポーツの祭典は求心力の高さ故に、為政者によって国威発揚やガス抜き(民衆の不満解消)、そして支持率向上のためなどに用いられてきた。ナチス・ドイツ時代のベルリン五輪は代表格だろう。

ベルリン五輪のメイン会場となったオリンピア・シュターディオン。写真はヒトラーが登場した瞬間を捉えたもの。観客が右手を挙げ、ナチス式の敬礼を行っている  (写真提供:Shutterstock)

サッカーの場合は、やはり4年に一度開催されるW杯がこれに相当する。アルゼンチンで行われた1978年のW杯などは、独裁政権に対する国民の不満をそらすためのものであり、後のフォークランド紛争と同じ効果を担っていた。86年メキシコ大会で、同国が成し遂げた優勝もしかりである。

とはいえオリンピックやW杯は、ネガティブな目的のためだけに開催されてきたわけではない。サラエヴォで行われた1984年の冬季オリンピックは、東側で開催された初の冬季大会であると同時に、オリンピック精神を再建するための第一歩として位置づけられた。4年前に行われたモスクワ五輪(夏季大会)は、西側諸国がソ連のアフガン侵攻を理由にボイコットし、アスリートたちが政治の犠牲になっていたからだ。

W杯にも好例はある。1954年のスイス大会で、西ドイツが成し遂げた優勝は、同国の復興を告げるものとなったし、1962年のチリ大会は、同国を襲った大地震からの復興をもたらすイベントとされた。

サラエヴォ五輪の聖火台。サラエヴォ五輪はユーゴが開催した、最初で最後の
スポーツの祭典となった

■「おらが町」のクラブを基盤にした文化

ただしクラブチームを基盤に行われる一般的なサッカーは、かなり状況が異なる。語弊を恐れず述べるなら、団結をもたらす傾向よりも、対抗意識を高める傾向が強いような印象さえ受ける。いや、より正確には「特定の地域内では非常に強い求心力を持つが故にこそ、地域間では対抗意識を刺激するケースもある」と表現するべきかもしれない。理由は簡単。W杯や五輪のサッカー競技と異なり、「おらが町」をベースとしているためだ。

この点は日本の皆さんも、実感できるのではないだろうか。Jリーグが誕生する前、日本国内でのライバル関係と言えば、関東と関西、東京VS大阪という図式が一般的だった。この枠組みはスポーツのみならず、文化や政治、人々が抱く潜在意識にも通底していた。

ところがJリーグの開幕と共に、「ダービーマッチ」という単語が急速に普及。今や関東圏や関西圏だけでなく、全国津々浦々で多くのサポーターが地元のライバルに対抗意識を燃やすようになった。むろん、これは必ずしもネガティブな現象ではない。「ダービー」という考え方自体が日本で定着したのは、それだけクラブチームの数が増え、サッカーを愛する人が増えた証左でもあるからだ

■ヨーロッパにおける「ダービー」の文脈

だが民族や宗派、社会階級が明確に分かれているヨーロッパなどの場合は、ダービーマッチに投射される対抗意識や文脈が、はるかに過激で危険なものに転化しやすい。

たとえばスコットランド・リーグのレンジャーズとセルティックは、「オールド・ファーム(古株)」という名前で親しまれてきたが、ファンベースははっきり特徴が分かれている。共にエディンバラに本拠を構えているものの、レンジャーズのサポーターはプロテスタント教徒(スコットランド系やイングランド系移民の子孫)が多いのに対し、セルティック側はカトリック教徒(アイルランド系移民の子孫)が主流を占める。

しかも両チームのライバル意識は、「宗教戦争」の如きものに度々エスカレートしてきた。かつてはセルティックのファンが、レンジャーズのファンに惨殺される事件が頻発していたほどである。この問題は『サッカー株式会社』でも触れているので、機会があればお読みいただきたい。最近、日本人選手がセルティックに移籍した際、一部の心無いレンジャーズサポーターがアジア人を馬鹿にするような挑発を行った背景には、人種差別とも結びついた歴史的な要因が絡んでいる。

「サッカー株式会社」

■なぜサッカーは憎しみを煽るのか

同様のことはイタリアに関しても指摘できる。イタリアは元々都市国家をベースにしており、近代国家が誕生する以前から、地域の自治・独立意識が強かった。このためイタリアはあれだけサッカー(カルチョ)がさかんな国でありながら、代表チーム(アズーリ)にそっぽを向く傾向が指摘されてきた。サポーターにとっては海外の代表チームよりも、自分の目の前にいる他のクラブこそが「敵」だからである。

ましてやこれがかつてのユーゴのように、各共和国の内部においても様々な民族や宗派、地域ごとにクラブチームが存在し、過去の忌まわしい歴史を反映しているような地域では、苛烈な対抗意識が必然的に強くなる。サッカーが融和や協調、相互理解をもたらすよりも、憎しみの炎を煽る鞴(ふいご)と化してきた所以だ。

■ヴェンゲルが語る、現代の宗教としてのサッカー

ここで思い出されるのは、かつてモナコや名古屋グランパス、アーセナルなどで指揮を執ったアーセン・ヴェンゲルの言葉だ。

彼が3年前に来日した際、僕はヴェンゲルサイドのブレーンの一員としてプロジェクトに参加。数日間、行動を共にしながら、じっくり話をする機会を得た。その際、彼はヨーロッパ社会において、サッカーやサッカークラブ、スタジアムが持つ意味合いについて、こんなふうに語ってくれた。

「かつてのヨーロッパでは、宗教が人々にアイデンティティを与えていた。だからどの町や村、コミュニティも教会を中心に形作られたし、自分たちの誇りを示すために、より豪華な教会を建てようと競い合っていたんだ。

だが現代では、サッカーが似たような役割を担うようになった。最近のヨーロッパでは、どのサッカークラブも、こぞって立派なスタジアムを建設しようと躍起になっているだろう? それは単に興行面を考えているからじゃない。サッカースタジアムは地域コミュニティのシンボルやアイデンティティの拠り所としても、きわめて大切な存在になっているからなんだ」

 (文中敬称略)
 (写真撮影/スライド作成:著者)

前編:#7:オシムが命がけで試みたこと

後編:#9:オシムが蘇らせた、サッカーという名の希望


『ウルトラス 世界最凶のゴール裏ジャーニー』




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