いじめ問題について。
現代社会でいじめ問題は後を立たない。
私自身も小学校、中学校、高校といじめられてきた。
なぜいじめられたのかは、今でもわからない。
いじめられた記憶は本当に重荷になる。
だけど、いじめた側は普通に家庭を持っていたりする。
私をいじめていた人間も、ベンチャー企業の社長になり、メディアやTVに出ていた。
そんな理不尽な社会の在り方に絶望したりした。
インターネットが普及しはじめてから、
いじめはより陰湿で、複雑なものになっていっている。
旭川いじめ問題
旭川いじめ問題。
14歳の少女が自らこの世を去った。
原因はいじめであったが、学校、教育委員会は事件後3年経つまでいじめを認めなかった。
学校側、教育委員会を批判する人は多い。
とくにあまりに他人事の教頭のコメントに批判する声もたくさん見られる。
被害者の気持ちを察して、相手を批判したい気持ちはわかる。
だけど、長年いじめられた私から見ると、教頭叩きをしている人たちも怖く感じるのだ。
その行為もまた、
いじめだからだ。
イジメになる仕組みをすこしお話ししたい。
***
いじめは、大勢で少数を叩く、数の暴力だ。
ただ数の暴力は意外と自覚するのが難しい。
哲学に『最大多数の最大幸福』という話がある。
1人の幸せより、10人の幸せが重要である。
という考えだ。
功利の原理として用いられたこの論理は、現代人にとってなかなか善悪をつけにくい。
教頭も、『被害者1人の未来と加害者10人の未来、どちらが大切ですか?』と口にしている。
理屈のみを考えれば、一理ある。
もし被害者が生きている時なら、そう考える大人は以外と多くいるのではないか。
ただ今回被害者は亡くなっているため、もう理屈で話すレベルではないことに気付いてないのはとても残念だ。
『最大多数の最大幸福』はビジネスの基本的な考えであり、当たり前のように私たちは少数派を切り捨てている。
まずはそれを自覚しておいた方がいい。
そもそも、いじめはロジックではない。
いじめは何かの原因があってとかの理路整然として話ではない。感情的で本能的で正義も悪もないことが多い。
それに、いじめる側の全員がいじめたいわけでないことがあげられる。
旭川いじめ問題の加害者10名とされているが、
本当に全員が彼女をいじめたがっていたのだろうか?
いじめられたくない、仲間はずれにされたくない、という自己保身でいじめに加担していることだってある。
私が先輩7名からいじめられてたときは、
7人全員が私のことをいじめたかったというとそうではない。私のことを気に入らなかった先輩はたった1人だった。
残り6名は私のことなど、どうでもよかったのだ。ただ暇だから、面白そうだから、お金もらえるから、そんな理由で加担していた人間もいる。
いじめの本質的な割合は、1:1:8ってこともあり得る。
加害者1、被害者1、その他8だ。
そして、その他8がどちらに転ぶかが、いじめになるかどうかの境界なのでないかと思う。
そう考えたら、いじめは当事者だけの問題だと見ている傍観者たちが、いじめ問題の根本的な要因と言えないだろうか?
いじめ問題から、当事者同士の比較、環境や社会の比較、そして動物や自然との比較までグーッと視野を広げれる人間が何人いるだろうか。
いじめられた人を可愛そうと言う人間はいる。
いじめた人を悪いヤツと言う人もいる。
だけど、現在進行形でいじめられている人の味方になってくれる人はほとんどいないのである。
だからって、
助けるべきだ!とは簡単には言えない。
それはわかってる。
私もいじめられたとき、味方はいなかった。
多くの人が見て見ぬふりをしていた。
私にとって世界は1:9に思えた。
助けが欲しかったのは事実だ。
だけどもし、
友達に『助けて』と言ったら、どうなるだろうか。
友達はきっと困るだろう。
考えてみてほしい。
あなたはいじめられている友達から助けてって言われたら、どうするだろうか。
断れば友達の助けを裏切る嫌な人間になる。
助けようとすれば今度は自分がいじめられるかもしれない。
これだって自己保身の考えだ。
いじめをなくそうと言いつつも、本心は当事者にならなければそれでいいのだ。
人間なら当たり前だ。
責めるつもりはない。
だから、
困るのがわかっているから、
どちらの友達も見たくないから、
誰にも助けてが言えない、言わないんだ。
自ら命を絶つことを選ぶ人間なら、なおさらではないか。
自分の代わりに誰かが傷つくのは見たくない。
だから自分1人が我慢するしかない。
だけど、自己犠牲はいつか限界がくる。
それを、
加害者に罰を与える?
誰がそんなことを頼んだのだろう?
なぜいじめられた側は自殺したのか想像してみてほしい。
迷惑かけたくないから。
誰かを傷つけたくないから。
罰を与えたいじゃない。
復讐をしたいんじゃない。
救いが欲しいんだ。
平和が欲しいのだ。
好きになってほしいとは言わない。
嫌いなままでいい。
仲良くならなくてもいい。
だけど、どうか放っておいてほしい。
私はやり返すことはしないから、これで終わりにしてほしい。
だけど、そうしてやり返さないのがわかっているから、
いじめっ子はいじめるのだ…。
加害者を批判するのはわかる。
許せない、最低だ、という感想も理解できる。
だけど、
罰を与えろ!は、
もういじめっ子と同じだ。
いじめられた子の気持ちを無視して、ただ自分の正義を振りかざしているにすぎない。
加害者も被害者も作らない解決方法はあるのだろうか。
最後にいじめについての小話を3つ残しておく。
①本人の意思と関係なく集められた集団でいじめは起きやすい。
イベントなどで好きで集まった人たちの中ではいじめは起きにくく、学校のような強制的に集められた集団の中ではいじめが発生しやすくなる。
②海外ではいじめる側(加害者)に救済が入る。
他人をいじめる人間は頭がおかしい。と考えが浸透している。いじめられる側を助けようとする日本とは根本的に逆なんですよね。
③自然の中で人は己の小ささを知る。
自然と比べれば、どの人間も大差ないのだから。マウントとる必要もなくなるでしょう。
さいごまで読んでいただきありがとうございました。
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