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メサイアコンプレックスという罠に苦しんだ話。

他人に優しく、困った人に手をさしのべる。

私はそんな人間でありたいと思っていました。

セルフイメージは優しく寛容な人。

自分が苦しいときこそ、他人に優しくしよう。
余裕がないときこそ、人間の真価が問われる。

そう考えながら生きてきました。


心理学を学んでいたとき、私のセルフイメージを木っ端微塵にぶっ壊す言葉を知りました。

メサイアコンプレックス

簡単に説明すると、自分が救世主であると錯覚すること。

誰かを助けるという行動は善い行いと思ってしまいがちだが、目的はというと、自分が救世主であると自覚するために誰かを助けてるに過ぎないということだった。

私の優しさや親切心はメサイアコンプレックスかもしれない。そう考えたとき、とても怖くなった。

そんなわけない!
そう言いたいのに、言い切れない。

小さいころから親の喧嘩の仲裁に入っていた。
夜遅くに母の家出を泣きながら止めたことを鮮明に覚えてる。

そして、小さかった私はある日こう思った。

ボクがいなかったら、この家族オワってんじゃん。

これもハッキリと憶えてる。
子供だった私が、あたたかい家族を諦めた瞬間でもあったからだ。

つまり、私はメサイアコンプレックスを持ってもおかしくない人生だった。

助けたいのは、相手ではなく、自分なのだ。相手を救いたいのではなく、自分が救われたいから、自分が救世主であると感じたいからだった。

過去の行いを反省した私は誰かを助けようとする前に、これはメサイアコンプレックスか?と自問するようになった。

そして誰かを助けることを躊躇するような人間になった。


本当にこれでよかったのだろうか。


困ってる人を助けたいというのは紛れもなく私の感情だ。
それがメサイアコンプレックスかどうかなんて、それこそ自分が傷つきたくないだけじゃないのか。

だから自分がそう決めたからやる。と決めた。

偽善と言われようがなんだろうが、
自分が助けたいと決めたから助ける。

残酷とか冷たいとか言われようが、
助けたくないと決めたから助けない。

この開き直りで結果的に、
見返りを求めることもなくなった。
他人の目も気にならなくなった。
助けなくないときは助けないは救世主にはなれないわけで、メサイアコンプレックスを克服できたと思う。

自己愛や自尊心は人生や対人関係に大きな影響を与える。

日本の家庭の8〜9割が機能不全家族と言われている。社会には愛情を知らない子供や大人がたくさんいる。

愛を欲しがるばかりで、与えることを知らない。
与えられたとしても、受け取り方を知らない。
愛の奪い合いだ。

メサイアコンプレックスも愛を奪う行為だと言える。

人を助けるとは、
愛を与え、受け取ること。

愛を与えることは大事。
だけど受け取ることも大事。

受け取る人がいなければ、与えることができない。
与えることはできるけど、受け取ることができない人がいる。

他人の施しを受けれない人は、相手より優位に立ちたい、与える側でいたいというメサイアコンプレックスを疑った方が良い。

恩を返させないのは、一種の束縛である。
受け取ることで相手を喜ばせることができることを忘れないように。

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