小説の中で君と生活する『転がる石』
冬のあるとき、僕は教室の隅で小説を書いていた。
すると君は「何を書いているの?」と僕に尋ねた。
僕は「小説だよ」とだけ答えると、君は「ジャンルは?」と訊いてきた。
僕が書いているのは、どれとも言えない気がする。型にはめてしまっていいのだろうか。
「ミステリーではない。ホラーでもない。ファンタジーでもないし、SFでもない。もちろん、歴史小説でもない。これはいったい、なんだろう?」
「純文学とか?」
しかし、そこまで煮詰めた文章でもない。この文章はもっとありきたりで、日常に潜んでいる。
「強いて言えば、生活かもしれない」
「生活? じゃあ、私小説かな」
「強いて言えば、それかもしれない。たしかに、僕は出てくるから。主人公のそばで、主人公を応援する。そんな役かな」
「その主人公が、何をするの?」
「その主人公は、もうこの世にはいない。だけど一つだけやり残したことがある」
「つまり、思い残したことを消化するために、現実を彷徨っているわけだね」
「そう。僕はそれをサポートするんだ」
「でも、それってファンタジーだよね。展開によっては、もしかしたらSFっぽいかもしれない」
しかし、僕は否定する。
「そこまで壮大な話じゃないんだ。あくまでも、僕の生活の中だけで起こる。だから、誰も巻き込まない。そういう意味では、私小説かもしれない」
「ふーん。それで、その主人公がやり残したことって何?」
僕は一度咳払いをした。その行動が正しいか、そんなことは考えもせずに。
「それは、好きだと言っていた人に告白すること。その主人公には好きな人がいた。だが、それを明かさずに死んでしまった。恥ずかしかったのかもしれないね。ただ、死んでしまったあとで後悔した。だから現世に残る僕と協力して、好きな人に告白させる……」
「その必要はないんじゃない」
君が僕の話を止めるのは、とても珍しいことだった。君は聞き上手で、人の話を否定することを嫌う人間だったから。
「それはどういう意味?」
「だってその主人公、わたしのことが好きだから」
それから君は悪戯に笑って、「周りくどいことしなくても、わかるよ」と言った。
「この小説は、すべてあなたの欲望。その主人公も、サポートする人も、みんなあなた。だから、私小説の域から飛び出ることのない、小さな物語。冒険する当ても決まっていて、出てくる人物はあなた以外に一人だけ。そう、わたし」
「つまり、僕は君に告白をする。そういう生活を望んでいる」
「恋人になって、手を繋いで、キスでもする。そういう生活を望む。たしかに、どんなジャンルにも当てはめることができないね。そんな些細な日常、小さな幸せ、だけど満ちた生活。小説にしても、何も面白くないよね」
「でも、僕は今でも望んでいるんだ。小説にならない生活を」
君は「ありがとう」と言って、涙ぐむ僕を慰めてくれた。
「でも、わたしはもういない」
「だからこそ、せめて小説で生活を営むんだ。それしか、僕にはできないから」
「それだけでも嬉しいよ。だってあなたは、わたしを覚えていてくれるんだから」
「忘れるわけがない。僕にとって君はかけがえのない存在だったから」
「それがもう、告白だね」
冬のあるとき、教室の隅にいた君は、「わたしたちはもう、恋人だよ」と言って消えた。僕は小説の続きを書く。これからもずっと、小説の中で君と生活するために。
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