見出し画像

『チョコレートに囚われて』


 私のモテキは幼稚園で、それ以降はかなり多くの女子、それから女性に嫌われていた。理由は簡単で、私がかなり太っていたからだ。いや、それだけじゃない。太っていたってモテるやつはモテる。私は人見知りで、臆病で、根暗なモンスターだった。だから女子、女性に関心を持たれなかった。今はどうか、正直、あまり人間と関わらない生き方をしているから、よくわからない。見た目はかなり変わった。今は不気味なくらい痩せている。ただ、肝心の中身は変わっていないから、多分モテない。

 それから思い出したが、私は多くの男子から、それから男性とも「つまらない」関係しか築くことができなかった。数々の同級生がいたはずだが、今はもう誰一人として関わりがない。哀しいが、自業自得である。

 バレンタインの日にこのエッセイを書き始め、幼少期はそれなりにチョコレートをもらっていたなと、過去の自分の頭を撫でる。しかし、あの頃の私にはまるで性欲もなく、もはや女子を女子だとすら思っていなかった。何と言うべきか、男女などどうでもよく、私はただ自分に優しくしてくれる人間だけを求めていた。幼少期の私の周りには女子が多かったが、それはたまたま私に優しくしてくれる人間が女子だった、というだけである。彼女たちは今頃何をしているだろうか。きっと、幸せになっているに違いない。

 しかし、バレンタインなんてイベントを日本に広めたのは誰だろうか。悪しきイベントとは言わないが、我々のほとんどは仏教徒だろうに。スーパーマーケットもコンビニも、チョコレートに囚われている。まあ、今更そんなことを言ってもどうしようもないが。私だって、チョコレートをもらって食べている。ほどほどに甘く、日常の疲れを癒してくれるチョコレートに罪はない。

 最近、SNSで同性婚の話題を見た。正直、立場にもよるだろうけど、私は同性婚を否定したくない。感情論だろうが、好きな人同士が結ばれることを否定するのは、何とも虚しい話ではある。ただ、性の話は複雑だ。当事者にしかわからない感覚がある。私にできることといえば、偏見を持たないこと、無意識に差別をしないこと、そしてあらゆる性の在り方を知ること。それくらいだろうか。凝り固まった価値観を捨てて、柔軟に物事を見る。気がつけば誰かを傷つけている、なんてことはあってはならない。愛について未だに理解できない私でも、それくらいのことはできるはずだ。

 それから相変わらず、世界が騒がしい。最近は二項対立がはっきりしていて、確実に分断していると感じる。いわゆる二極化した世界だ。どちらにも付かず、平和だけを唱える。もはやそれは無責任かもしれない。
 本当は戦争なんてするべきではないし、核兵器なんてこの世から無くなるべきだと思う。ただ、悲劇を繰り返さないようにするには、悲劇を起こそうとする悪者を退治しなければならない。無論、悪者は話し合いをしても理解しない。彼らには彼らの主張があって、彼らの正義を信じているから。そんなとき、私たちはどうするべきだろうか。最近はそんなことばかり考えている。悪者なんて、甘いチョコレートにしてしまえばいい。なんか、そんなフレーズをどこかで聞いたことがあるような、ないような。

 なんとなくの感覚だが、これからの世は確実に荒れる。こんなエッセイが意味を持たなくなるほどに、荒れる。来年のバレンタインデーで、好きな人にチョコが渡せるかな、なんて心配が無用になるくらい、荒れる。それでも、私たちには生活がある。私なら、仕事をして、美味しいものを食べて、好きなお芝居を見て、小説やら詩やら、どうでもいいことを書くという生活がある。それらが吹き飛ばないように願う。そして社会に関心を持ち続けて、微力ながら声を上げる。今の私にはそれくらいしかできない。

 もう一回くらい、他人である誰かに好かれてみたいじゃないか。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?