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小さな家『転がる石』



 君が死んだのは十七で、僕が君を好きになったのは、たしか十五の頃だ。あの頃から、君は随分と変わった人物だった。大人しく、人を避けて、いつでも影を好む人物だった。しかし、君は女々しいというべきか、甘えてくれる一面もあって、僕はそんな君のことを好きになってしまった。君は、まるで月と猫のハイブリッドみたいだった。

 君は昔から、何かを憂いていた。あるときは教師と生徒の恋を憂い、あるときは中東で起きた戦争を憂いた。他の児童の両親がもたらす虐待を憂うこともあった。一匹のバッタの足がもげていて、それを見て憂うこともあった。

 しかし、とある日雨が降ったとき、君は静かな笑みを浮かべていたことを僕は鮮明に覚えている。

「多分ね、自分は来年あたりで死ぬよ。その前にさ、一本の小説を描こうと思うんだけど、どうかな? 読んでくれる?」

 君の提案は僕を驚かせたが、僕は「もちろん」と了承した。

 三ヶ月後、君は一本の小説を書き終えた。そのとき君は十七になったばかりだったが、髪色は真っ白で、ひどく痩せこけていた。老婆かと思うくらい、君は老いていた。

「その小説に全ての気持ちを詰めたよ。そのせいで、自分はこんな有り様さ。しかしね、自分はとても満足している。人間、老いていく運命、だけどどうせ老いるならば、思い残すことなく老いるべきだって自分は思う。死ぬ運命は変えられないのだからさ、せめて美しい感情を記したいって欲望は、穢いかい?」

 翌日、君は死んだ。

 それからしばらくして、僕は君が描いた小説を読んだ。

 主人公は君で、登場人物は君と僕だけ。そこは本当に小さな世界、いや、君と僕は小さな家で暮らしていて、来る日も来る日も、僕らは会話をするだけだった。しかし会話の内容は猫の話ばかりで、憂うことは何一つなかった。夜になると外に出て空を見上げるが、毎晩のように月は満ちていて、無限の星々が夜空に散らばっていた。そして君は僕の手を繋ぎ、幸福だと言ってくれるのだった。繰り返し、繰り返し、僕らは幸せな日々を送って、物語は終わる。いや、正確には続くのだろうが、君は幸せな状態で死ぬことを選んだから、小説自体はここで終わっている。

 君が望んだ世界は、憂うことがない世界。小さな家でたった二人だけで暮らせる世界。僕らが小さな愛を育める世界。痛みも悲しみもない世界。未完の小説の先にも、淡い光が続く世界。そんな場所だった。

 いつの間にか、僕はタバコが吸える年齢になっていた。お酒が飲める年齢になっていた。結婚だってできる。子供だっていてもおかしくない。社会に出て、せっせと働いて、生きることに必死にならないといけない年齢になっていた。

 だけど、今の僕は山奥の小さな家で、自給自足の生活を送っている。ずっとずっと、君が描いてしまった『小さな家』を忘れられないから。

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