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自己責任社会の帰結、相模原障害者施設殺傷事件

今日はずっと気になっていた恐ろしい事件に判決が出ました。

彼は最後に何かを言いたかったようです。それはおそらく自分の正しさを主張するものであったと思いますが、発言は認められませんでした。

事件が起こった時もそうですが、今回の判決についてのSNSなどの書き込みを見ると、「殺した方が社会の役に立つと思った」「意思疎通が取れない人は社会の迷惑」「人の金と時間を奪っている」と障害者の存在を否定する植松聖被告の発言に同調するものが結構ありました。

ここ数年、多くの人が生きづらさを感じているな、何かの拍子に引火して爆発しそうで怖い世の中だと感じていました。

生産性を求められ、蔑ろにされ、自分がいなくても誰も悲しまないだろう。そう思った時にある人は自ら命を絶ち、またある人は部屋から出なくなり、そしてある人は他者を攻撃します。

「自分はこんなに頑張っているのに何もしていない人が世の中にいる」
「さも弱者であるようにアピールをして私達の金で生きている」
「自分の力で生きられないなら誰にも迷惑をかけずに死んでくれ」

心身に障害があったり生活が立ちいかなくなったりしたから支援を受けているのにも関わらず、それが特権で楽をして暮らしている、社会に役に立っていないのに金だけを使う存在だと思われてしまいます。

とても息苦しい社会になっているので、このような事件がいつか起こってしまうと思っていたのですが、植松被告が「障害者は社会の迷惑で金を奪っている」という理由で人を殺した時についにここまできてしまったと恐ろしくなりました。

生きる事が辛い世の中になると、誰の心の中にもきっとある自分より弱者を探す気持ち、優生思想などが膨らんで表に出てきます。それは誰もが植松聖というものになる可能性が高くなってしまうという事です。

しかし同時に誰もが事故や病気で障害者となったり、生活保護を受けたりする可能性もまたあるわけです。被害者にも加害者にもなりうる事件なのに、他人事のようになっているのはどうしてなのでしょうか。

それは障害者施設と言う場所が自分の生活とは関係ない所だと思っているからなのかもしれません。地図に載っている、同じ県や市にあるとは知っていても、自分の世界と交わらない、パラレルな世界の話だと思っているのです。だからそこで悲鳴があがったり血が流れたりしても、何かぼんやりと見える遮蔽板の向こうの話だからです。

また今回の事件の審理では、障害者への根強い差別感情があるためにほとんどの被害者が匿名で、甲乙やアルファベットなどで呼ばれていて、それがまた人の命が奪われたという重大さを失わせてしまうのではないでしょうか。記号のように扱われるのは辛いけれど、実名によって差別されるのが怖いだなんて悲しすぎます。

今コロナウイルスの事で日本はおろか世界が大変な状況のため、この国の闇が噴き出した事件もすぐに埋没してしまいそうでそれもまた恐ろしく感じます。

少し前に、自宅のプレハブ部屋に長女を約10年間監禁し死亡させたという大阪府寝屋川市の事件の判決がありました。

また昨年は農林水産省の元事務次官が息子を殺す事件もありました。

人に迷惑をかける存在だから、閉じ込めたり見えないようにするしかない。自己責任が蔓延しているので、恥と感じてしまう事を相談できずに家族内で抱えてしまうという流れがあったからではないでしょうか。

現在グループホームなどの障害者施設が住民の反対で建設できなくなるという事も各地で起こっていますが、それも障害者への無理解が生み出しているものです。

差別されるのが辛いからみんな自分や家族の障害を隠そうとした
→隠す事で世の中の人たちは周囲に障害者がいなくなりその存在に思いをはせる機会がなくなる
→障害者がいない前提で世の中が作られるようになっていく
→いざ障害者が声を上げたり施設を建設しようとすると反対運動やバッシングが起こって差別される
→そのためさらに障害者は息をひそめるようになってしまう

そんな悪循環が起こっているをどう断ち切ればよいのでしょうか。

この数十年でみんなが希望や自信を失い、自分で自分の事ができなかったり働けなかったりする人を叩いてきた社会。それが植松聖という存在を生んだわけですが、人が機械や部品のように扱われ、心がない世の中が続く限り
同じような事件がまた起こる可能性が充分にあるわけです。

この裁判の間も彼の考えは全く変わらず、それは現代社会の強固な差別意識と同じで、自己責任や人を叩く事で自分を成り立たせるような社会の帰結、それが今回の事件のような気がしました。

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