見出し画像

半可通ループ(彼女の粉)

【2864文字】

どのくらい経っただろう
ふと気付くと
僕は暖かな陽を浴びながら
電車に揺られている事に気付いた
座席に座っているらしい
少しウトウトしている
僕をよく知っているという女性と
並んで一緒に座っている様だが
僕には彼女が誰だか分からない

その女性は背中に大きな荷物を抱え
シートへは浅くしか座れていない
辛そうだ
彼女をもっと辛くしているのが
その手にしているものだった
何か茶色い粉を盛った段ボール片を
大切そうにそして慎重に
両の掌で掲げる様にして持っている
コーヒー豆をミルに掛けたような粉だが
コーヒーでないのは明らかだ
何の粉だかは分からなかった
しかし僕はその粉が何であるのか
まるで知っているかのような顔をした
あんなに大切そうに持っているのだから
きっとよほど重要な粉なのだろう
重要なのに知らないのはマズいと思ったのだ

電車は揺れて時々乗客が彼女に当たる
その度に粉をこぼしそうで僕はひやひやした
電車はそこそこ人が乗っている
座席はいっぱいで立っている人も多くいる
彼女はやれやれという感じで大切そうに
しかしとても不安定に
その段ボール片の上に盛られた粉を
両の掌に乗せ続けている
その困ったような顔を
僕はどうにも不憫に思い
次の駅で降りようと彼女に言った
降りて駅のホームで
その粉を何かの瓶かタッパー
またはその段ボール片でこぼれないよう包んで
カバンに入れてあげれば両手が自由になるし
神経をとがらして電車に乗らなくても良くなる
そう思ったのだ

次の駅は新宿だった
そうかこれは山手線だったのだと思い
新宿は良くないなと思った
新宿駅は人が多すぎて
乗降の時にきっと彼女は粉をこぼしてしまう
そう考えたのだ
次の新大久保ならきっと乗降客も少なく
そんなに混んではないだろうと思った
その時電車は新宿駅を通過した
ハッと思い僕は窓の外を確認した
すると背後の窓には明るく広い海が広がっていた
海辺を走っている
いつから新宿は海辺になったんだと思ったが
彼女にそんなことを尋ねたら
周りの乗客や彼女に
「何をいまさら言ってんだコイツ」とか
「きっとお上りさんなんだわこの人」
と思われるのが嫌で黙っている事にした
それにしてもきれいな海だ
電車はちょうど波打ち際の上を走っている
一方逆側正面の窓は薄暗く
巨大でゴチャゴチャした建物の影ばかりだ

その時ふと隣の彼女を見た
彼女の両手は膝の上に置かれていた
スカートの上でさっきの段ボール片を握りしめていた
粉は僕と彼女の間のシートの上に
全部こぼれていた
すごい量だった
僕の太ももにその重さがのしかかっている
これは大変だと思い
僕は慌ててその粉を集める
彼女が握っている段ボール片を取り上げ
その上に再度粉を戻し始める
粉はなかなか取れないが
段ボール片の上の粉がどんどん積みあがっていく
シートの上は粉だらけなのに
段ボール片の上にはもうこれ以上は乗らない
段ボール片の上に乗せた分だけまたこぼれた
新大久保が近づいている
しかしこのままでは降りられない
そうだ池袋で降りようと思った
池袋はもう少し先だから時間がある
その間にこの粉を何とか全部拾い上げればいい
すると彼女がふと立ち上がり
粉だらけの僕の手を取ってどこかに行こうとする

僕らが立ち上がると
その空いた席を数人が争って座ろうとしている
粉が車内に舞い上がる
電車がどこかの駅に止まり
僕らはそのまま電車を降りた
人々は粉だらけになって
シートの取り合いをしていて
ホームに降りたのは僕たちだけだった
ドアが閉まり電車は構わずホームを滑り出した
電車が行ってしまうと静寂がやって来た
恐ろしく小さな駅は静寂に包まれた
新大久保ではなさそうだった
僕は無人の改札を抜けて倉庫に向かった
何がしまってある倉庫かは知らないが
その倉庫は良く知っている
なぜ知っているかは知らない
知らないという事を何度も知らされたのだ

木枠のガラス扉をガラガラと開けると
古びれた段ボールが重なり合って積んである
僕は迷わずその一番上に登って
倉庫全体を見渡すが
奥の方は暗くて何も見えなかった
見えないことは百も承知だったが
今回もまた倉庫全体を見渡した
そしてまた彼女がいない事に気が付いた
いつからいないのか
いくら記憶をたどっても判然としない
一緒にホームへ降りたはずだが
一緒に倉庫まで来た気もするし
彼女だけそのまま電車に乗って行った
そんな気もする
明るい扉の方を目で探す
入口のガラス窓を見下ろすと
窓の外に靴が落ちているのに気づいた
今回もきれいな男物の靴だ
その靴を履けば彼女の居場所が分かる
以前のようにまたそう思った
僕はどうしてもその靴を履かねばと思い
急いで段ボールの山を下り始めた
どんどん降りていくがなかなかたどり着かない
どんどんどんどん降りていく
すると少し空気が生ぬるくなり
息がしにくくなる感覚に陥った
次の瞬間今まで嗅いだことのない
クサいともいい匂いともつかない
しかし強烈な匂いが鼻を刺激した途端
耳の奥でパルス波が鳴って
その音が階段的に音程を下げながら
音量も下げて行った
その瞬間に僕は床に叩きつけられ
呼吸が出来なくなった

意識はしっかりあるのだが体が動かない
先ほどの臭いもなくなり音も聞こえない
痛みが全くないどころか
全身の感覚が全くなくなり
とてつもない睡魔に襲われた
寝てしまえばきっと死ぬのだと直感的に分かった
しかし何もすることができない
息はできないままだが苦しくはない
つい深い眠りに落ちそうになるが
我慢して何とか意識だけで起きていたが
きっとそれもあと数十秒も持たないと感じていた
痛くもなければ苦しくもない
全く何も見えないが明るすぎず暗すぎない
死はこうやって訪れるんだなと悟った
悟りながら死なないことは知っていた
そして誰かが僕の腕を引っ張りはじめた

ゆっくり少しずつとても少しずつ
倉庫の外へと引きずられていった
そのスピードがあまりに遅くて
僕はその誰かを「ノロマな奴だ」と思った
すると次の瞬間暖かい日の光を体に感じて
ようやく息が出来る実感に浸れた
目を開けそこに見えたのは彼女だった
どこに行っていたの?と言おうとする前に
「もう大丈夫よ」
と彼女は言った
初めて聞く声だった
何度聞いても初めて聞く声なのだ
君は誰?と尋ねたかったが
「うぅうーっ」と唸るばかりで言葉にならない
頭がまだもうろうとしている
彼女は少し悲しそうな眼で僕を見下ろしている
そして「もう帰ろうよ」と彼女は言う
やはり聞き慣れない声だ
今何時だろう
しかし時間の行方は分からないままだ
駅は近かったはずだ
そんなに急がなくてもいいだろう
またどうせ同じことが始まるんだ
もう少しこうしていよう
日差しは温かく気持ちはいい
力の入った手に気付き緩めると
右手には泥をつかんでいた事が分かった
砂が少し水を含んだ泥だ
もう片方の手には段ボールのかけらを握っていた
転げ落ちた時につかんだものだろう
次に彼女を見た
笑ってる?
それにしてもこの倉庫の段ボールが全部
あの茶色い粉だったら
君はどんなに喜んだだろうかと
彼女の笑顔を見ながら
ありもしない妄想を思ったが
バカらしくなって
僕は疲れ果ててしまい
少しめまいも感じたので
再び目を閉じた
瞼に明るい日差しを感じる
再び意識が遠のいていく

どのくらい経っただろう
ふと気付くと
僕は暖かな陽を浴びながら
電車に揺られている事に気付いた
座席に座っているらしい
少しウトウトしている
僕をよく知っているという女性と
並んで一緒に座っている様だが
僕には彼女が誰だか分からない