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THE ROAD OUT(翼あるもの)

[23,512文字]

もう40年近く前の事だ。細部は所々に記憶違いもあるとは思うが、これ以上記憶が劣化してしまう前に記録しておこうと思った。
関係者の方々から「お前なんか瞬間その場に居ただけの使い走りだろ、何を知った風な事を」とお叱りを受けるのは百も承知しているところで、しかし甲斐バンドからしてみればほんの瞬間でも、一個人の僕の人生のスタート地点としてはとてもエポックメイキングな出来事であり、その後の仕事や人生に大きく寄与した出来事だったことをご理解頂き、戯言として読み捨てていただければ幸いに思う。
ー ー 2020年 秋 ー ー

【甲斐バンド】



僕の18歳は1981年のこと。
短期間ではあったが甲斐バンドのローディーとして働いていた事があった。
甲斐バンドは1974年にデビューし、この頃は既に「ヒーロー」(1978年)や「安奈」(1979年)などを世に出した直後で、日本中にその名を轟かす超有名バンドになっていた。
そんなバンドに何故数か月前に広島の高校を卒業したばかりの僕が誘われ、その仕事に就いたのか、その辺りの事は話が逸れるのでここでは割愛するが、少し想像してみて頂きたい。
ともあれその田舎のダサいロック少年が突如日本の産業ロックの中心部に放り込まれるのだ。いちいちお名前は上げないが、遠く広島でただ漠然と観ていたテレビの中や、漠然と聴いていたラジオやレコードの中でしか知らないミュージシャンの方々、トップアイドルの方々、有名俳優さんなどが、突如僕の日常の世界に現れ話しかけて来たりするのだ。きっとその頃僕は何が起きてるのかたぶんよく分かっていなかったんじゃないだろうか。甲斐バンドはテレビに出ないバンドとして有名だったが、それでもどういう訳かテレビで活躍されている名だたる有名な人たちとの接触も多かったのは少し不思議だった。超有名バンドというのはそういうものなのだろう。

僕が在籍した期間における甲斐バンドの主なとトピックとしては、シンコーミュージックから独立して(株)ビートニクを立ち上げ、花園ラグビー場で20,000人以上のライブを敢行、アルバム「破れたハートを売り物に」や写真集「1982:BEATNIK」を発売したという時期だ。
今思えばその超有名バンドが最も栄華を誇り、最もビッグでいられた時期であったと言えるが、つまり言い換えれば既にかつての日の出の勢いを失い、もうこれ以上昇る事のない上死点で立ち尽くしていた頃だったと言ってもいいのだろう。(この表現に失礼がありましたらお詫びします)

【ローディー】



さて、ローディーである。先ずは職業として普通ではなかなか縁のないローディーという仕事を簡単に説明すると、一般的にはロックバンドの楽器周りやステージ周りのこまごまとした雑用をこなすスタッフの事を言い、その当時は各バンドに専属で雇われるのが慣例とされていた。現在ではローディー職や音響、大道具などを扱う独立企業が存在し、バンドが必要とする時にだけワンショットで契約し雇い入れる形になっている。

仕事がローディーだと言えば業界っぽくて何だか格好も付きそうだが、親や親せき、友人などに大変説明しにくく、ましてや行政や金融の申請書類などにある職業欄に書けば必ず説明を求められる面倒な職業だ。砕いて言うなら演歌や歌謡界で言う所のボーヤであり、ヨロズ使い走りの雑用係である。普段はそう説明していたが、実際はその言葉よりももっと過酷な世界だった。しかも雇用保険も社会保障も何もない、実質の日雇い労働者である。
今でこそ音響屋さんや照明屋さんには多くの女性が働いているが、当時そこは完全な男社会で、時代もあっただろうが縦関係による統制で物事が進んでいく古めかしくも厳しい社会だった。僕は初めての社会人経験をここで積んだおかげで、その後の人生で少々の目に遭っても動じずにいられると感謝している。

前述した通り1981年の甲斐バンドのローディーはバンド専属スタッフである。バンドの稼ぎからローディーの給料を払うので、生半可なバンドではローディーは雇えない。ローディーを抱えていられるバンドというのは希少だった筈である。
その頃日の出の勢いの浜田省吾さんの所でも確か1~2名程度だったと思うが、甲斐バンドは僕を含め6人ぐらいローディーを抱えていた。ぐらい、というのは人の入れ替わりが激しく、安定した人数が常に居なかったという意味だ。僕もその不安定要素の一人だろう。
このバンドが当時どれだけ隆盛を誇り、ローディーという職業がどれだけ過酷労働だったかが知られるところである。

【スタッフ】



さてそのローディーチームだが、明鏡(めいきょう)さんという変わったお名前のローディーチーフが仕切っておられた。当時はまだ20代半ばだったと思うが大変頭の良い人で、普段は丁寧に静かな口調で話す人だった。しかしいざライブ現場に行くと別人のように会場狭しと飛び回り、他のローディーやスタッフに大声で細々と指示を飛ばせる現場のプロフェッショナルだった。故に甲斐さんやメンバー、その他のスタッフから全幅の信頼を寄せられた人物だった。
しかしこの明鏡さん、実は自分自身が演奏して歌う仕事がしたかった人で、恐らくこの頃はその夢を諦めてなかったと思う。その証拠にツアーの時いつも10トン級の楽器車の、荷台の扉を開ければすぐ取り出せる位置にご自身のギターを必ず積んで移動していたのだ。時々移動中の長い休憩時や会場に早く着いた時など、そのギターを持ち出して遠く一人で弾いている姿を何度か見た事がある。身に着けるもののほとんどが青色で統一されているのもこの人の特徴で、その色のせいか明鏡さんを思い出せば必ず、何故かちょっと切ないブルーのイメージが湧いて来るのだった。

その他のローディーたちは僕より皆年上だった。いつも明鏡さんの指示に従うだけの少々頼りない感じに見えたが、一様に皆明るいのが取り柄だった。明鏡さんも含めそのローディー達の実質的なボスはタレントマネージャーである。
事務所社長兼マネージャーの佐藤剛さんは大変物腰の柔らかい感じで、印象としては文学少年をそのまま大人にしたような感じだった。僕の様な右も左も分からない下っ端の若造にも常に優しく接してくれた。優しいだけではなく、甲斐さんがどんな無理難題を吹っかけても焦らず、必ず何らかの回答を見出せる人である。この時の年齢は恐らくまだ30歳前後だったと思われるが、18歳の僕から見れば業界で百戦錬磨の老練な大人にしか見えなかった。甲斐さんは何かあればいつも佐藤さんのファーストネームの剛を呼び捨てにして、「ゴー、明日のスケジュールは?」「ゴー、晩飯食ったら打ち合わせよう」と常に頼りにしている様だった。

その他に印象的に覚えているのは舞台監督の諌山さんという方だ。僕はこの人がいつも鬼の様に恐ろしく見えていた。舞台監督なので会うのはいつも現場の忙しい時だけで、この人は普段叫ばずに生活する事が出来ているのだろうかと心配するくらい、いつも怒声を上げ誰かを怒っている印象があった。
また斜視気味のぎょろ目が今ひとつ気持ちの読めない表情を作ってしまい、その現場口調や腹から出る声質と相まって空恐ろしかったのだ。足に少々不自由を抱えられていた様に記憶しているが、さてどうだったか。もしそうだったなら、ご自身のままならない身体から来るじれったさも怒声に含まれていたのかも知れない。
しかし僕がこのローディーをやめるときに、一番最後までもう少し頑張ってみろと言ってくれた人でもある。

音響チームは既にこの頃からヒビノ(株)という専門の会社に依頼していたようで、現場ではやはり外注さんという立ち位置で働いていた様に思う。搬入時やバラシから搬出時が一番現場が騒然とし、あちこちで怒声や罵声が飛び交うのだが、そんな中でも音響さんだけは淡々と己の仕事をこなしているイメージがある。

ライブの現場ではなんせ大道具も照明も楽器も、その仕事のほとんどがステージ上にある。しかし音響さんだけはステージの両隅にスピーカを積んだら、ステージ袖にモニターPAを組んで、舞台が出来上がって他チームが居なくなったころに悠々とモニタースピーカーを転がし(設置し)、悠々とマイクチェックをする。ステージ上がごった返している間は、誰もいない広々とした客席の真ん中でメインPAを悠々と組んでいるのだ。
ところが大道具と照明とローディーは違う。少々広いステージであっても数十人の荒くれ者と巨大な荷物が行き来すれば誰だってイライラしてくるものだ。ともあれ現場では大道具さんや照明さんたちは実に荒っぽい。
「どけどけ―っ!死にてぇのかてめぇ、ボサーっと立ってんじゃねぇ!」
「おーいそこの若ぇの、ナグリよこせ。そこのナグリだよ!早くしねぇとテメェからぶん殴るぞこのタコ野郎!」
「バトン下すぞ!おいてめぇ聞こえねぇのか、バトン下してんだよ、どけっつってんだコラ!」
ところがこの荒くれ者の上をいく人がいた。舞台監督の諌山さんは毎回現場でこの荒くれた人達を手なずけてコントロールするのだ。手なずけるというよりサル山のボス猿の様にとにかく威嚇しまくるのだ。これがとても激しい。僕には諌山さんのその時の印象しかないのかも知れない。
「コラ―ッ!こんなところにCP置いとくんじゃねぇ!邪魔だ!サッサとどけねぇとCPの下敷きにすっぞ!」
「おい、先ずは大道具車から入れろ!3号車だよ!タコ!2号車をどかせろっつってんだよ!ひき殺すぞ!」
「メンバー来る前に通路のケース類を片付けとけ。どこに片するかはテメェの頭で考えるんだよ!使えねぇ頭なら切り落としちまえ!」
「気が付いたらそっちを持ってやれよ!明日からお前ひとりで持たせっぞ!コノヤロ」
「おいアクビとは悠長じゃねぇか。今日はもう寝んねか??働かねぇヤツぁオレがこっから叩き出してやる!」
「ほらほらぼーっとしてる間はねぇぞ!やる事なくてもとにかく動け動け動け動け―っ!!」
この声に踊らされて大道具チームと照明チームと音響チームに、ローディーチームが毎回現場で競争しながらステージを組んでいくのだ。
その飛び交う怒声の中、我らがローディーチーフである明鏡さんも、負けず劣らずの大声で指示を飛ばすのであるから、例え僕が明鏡さんに大声で怒鳴られたとしても、いいぞ負けるな明鏡!もっと大声で!という摩訶不思議な気分になったものだ。

【ローディーのお仕事】



バンドの主な仕事は全国ツアーと新譜の制作である。
ローディーという仕事はバンドメンバー直属のスタッフと言えば格好もいいが、はっきり言えば奴隷の様なものなので、バンドが何の仕事をするにせよ影のようにして付いてまわらなければならない。現在の様に労働者が労働基準法で守られているような時代ではない。付いてまわれと言われたらとことん付いてまわるのがこの時代である。時間外就労とか安全基準とかパワハラやコンプライアンスなんて糞くらえの時代だ。24時間拘束と言っても過言ではないのが日常なのだ。例えばレコーディングの場合。
メンバーがスタジオに13時入りであるなら、僕らはその2~3時間前に入って楽器や資料、飲み物などの準備をせねばならなかった。当然楽器はスタジオから遠く離れた倉庫に置いてあるので、先ずそれを取りに行かなくてはいけない。当然電車なんかではアンプやドラムセットは運べないので、予め契約してある専属の運送屋さんのトラックを出してもらう。
先ずは運送屋さんに行くのだが家からそこまで1時間。運送屋さんからトラックで倉庫まで1時間。倉庫で荷物を選別して乗せたりで30分。そこからスタジオまで1時間。
そんなこんなで家を出るのは朝6時とか7時頃がリミットになる。しかも僕は一番下っ端なので誰よりも早く行ってなければ怒られる。

スタジオのタイムスケジュール表を見ると甲斐バンド様10:00~27:00と書いてあったりする。27時というのは深夜3時の事だ。しかし予定通り3時に終わることなどは先ずない。更に2時間を費やしようやく終了してメンバーが帰宅しても、我々は搬出作業が待っている。
窓のないスタジオの外へ出ると煌々と輝く太陽に照らされて溶けそうになる。再びトラックに荷物を積んで倉庫に荷を下ろすと朝7時という事はザラだった。
連日作業で同じスタジオを帯で(連日で)取ってある時は、ハケや搬出と倉庫輸送がないので帰宅時間が2時間ぐらい稼げる。それでも家に帰れば朝5時で、スタジオ直行だとしても4時間後には家を出てなければ間に合わないが、腹も減れば風呂にも入りたいし洗濯もしたい。
僕の立場で入り時間の5分前に行ったのでは怒られる。ある日5分前に行くと明鏡さんは既に積み下ろし作業をしていた。「スミマセン遅れました!」と言いながら作業に加わろうとした時、「誰が作業しろと言った。もう帰っていいぞ」と言われて謝りまくった事があった。それ以来30分前には現場入りするようにしたが、いちいち中野沼袋まで帰っていると通勤時間がもったいないので南青山の事務所で仮眠する事が増えた。
そんなこんなである時丸々3日間ろくに仮眠さえ取れなかった時は、いくら若いとはいえさすがにキツかった。

楽そうで案外きついのがレコーディングの最中だ。正直なところレコーディング作業が始まってしまうと、我々ローディーは何時間も特にやる事がなくなってしまう。時々誰かが所望する飲み物を買いに行ったり、コピーをしに行ったり、ケンタッキーやシーバスリーガル(ウイスキー)と氷、高中正義さんやStonesのレコードを買いに出たりするくらいで、よほどのトラブルがない限り楽器の調整という事もない。この暇という事ほど苦痛な事はない。当然「暇なので寝ます!」という訳にもいかない。いつ何時呼ばれてもハイと言って雑用を受けられる体制でいなければならないのがローディーだ。しかしこのほとんど何もない雑用待ちの時間がどうにも苦痛で仕方なかった。

僕がいた頃甲斐バンドは市ヶ谷のSOUND INNスタジオのAst.という大きなスタジオを使っていた。ブースと呼ばれるいわゆる演奏する防音室はオーケストラも入れる広さで、その片面の壁がガラス張りになっている。その手前にコントロールルームという部屋が別にあるがこれも広い。
もう現在はレイアウトも多少変わっているかも知れないが、当時はコンソールと呼ばれるミキサー卓がこのコントロールルームのほぼ真ん中にドーンと据えられ、その後ろにディレクターデスクがあり(あったと思う)、その更に後ろの壁に沿ってソファーやテーブルなどのくつろげるスペースがあって、コーヒーサーバーや甘いものなどが置いてあるスペースもあった。
僕らローディーの分際では呼ばれない限り、そのどの辺りにも足を踏み入れる事は許されていなかった。じゃあ何時間もどこにいたのか。そのコンソール正面にはブース内が見渡せる大きなガラスがあり、ガラスの上には巨大なスピーカーが埋め込まれている。コンソールから見るとコンソールのすぐ向こうにガラスがあるように見えるが、実はガラスとコンソールの間には2m程度の隙間があり、その隙間に簡単なソファーが置かれている。ソファーを外せばコンソールの複雑怪奇な配線を裏から触れるようになっているという仕組みだ。
我々ローディーは何時間もの間、静かにそのソファーで息を殺して潜むのが決まりだった。レコーディング作業をする場所なので、当然私語は厳禁である。そこに座ってみると、目の前ににブースとコントロールルームを隔てる大きなガラスが冷え冷えとそびえている。当然中で演奏する人の姿も見えるが、そのガラス面にはコンソールで作業するオペレーターや、その奥のソファーなどで談笑するメンバーらの姿が鏡の様に映って見える。つまりその隙間はその巨大なスタジオの全貌を見渡せる絶好の場所といっても良かった。
僕らはこのガラス面に映し出される情報を食い入るように見つめて、運良くギターの弦が切れるトラブルがあればブースに工具箱を持って入り何か作業する時間が持てる。それ以外の時間はそのガラス面をただ見続け、誰か雑用を必要としてないかを察するのが仕事だ。しかし雑用というものはそんなにあるものでもなく、ソファーにただだらしなく座ってるように見えるが、大変苦痛な仕事だった。
前記の様に連日の仕事でローディー達の寝不足は慢性化しており、荷物の搬出搬入などで体力も消耗している。コントロールルーム内は一定の音量で同じ曲の同じ個所が何度も何度も繰り返し再生され、高級スタジオ内の空調は常に心地よい一定の温度を保っている。自然と瞼は重く垂れ下がり充血した脳は既にそれが睡魔だとも判別できなく、催眠術にでもかかっているかの様なうつろな眼はかろうじて開かれているが何の抑揚も映さない。
当然ながら仕事中の居眠りが許されるはずもなく、寝落ちする前にローディーは自主的に一旦静かにスタジオを退出して、トイレで顔を洗うなり、自らビンタを食らわすなり、眠気対策をしてから再び現場復帰するのがしきたりだった。

しかしある時僕はとうとう禁断の寝落ちをしてしまった事があった。鏡面化したガラスはこちらからも見えれば当然あちらからも見えている訳で、たいていの場合ならチーフの明鏡さんが気付きそっとやって来て揺り起こしながら「顔洗ってこい」と言ってくれる。しかしその時はたまたま明鏡さんは他の作業をしていたらしく、僕の居眠りには気付かなかった様だった。
「前で誰か寝とっとよ」といつもの博多弁で甲斐さんがマネージャーの佐藤さんに注意して、それでやっと明鏡さんが気付いて寝ている僕を叩き起こしたそうだ。僕はあわててスタジオを出ようとしたがその時甲斐さんは、
「あんなのもう帰して良か」と佐藤さんに向かって冷え冷えと言った。僕はスミマセンと言って頭を下げたが、スタジオの中は凍り付いたままで、外に出ようにも出れずどうしたらいいか分からないまま頭を下げ続けていると再び明鏡さんが、
「俺からしっかり言っておきます!」と言って僕の手を引いてスタジオの外へ出してくれたことがあった。

その頃は恐らく仕事にも慣れてきたころで気も緩んでいたのかも知れないが、ローディーを始めてかれこれ2ヵ月ほどたったころだったと思う。実はこれが初めて甲斐さん本人が僕の存在について口を開いた出来事だった。と言ってもこの様に僕に直接何かを言った訳ではない。僕はそれまでメンバーやエンジニアの方などとも仕事の話や雑談などもすることが当然あったが、甲斐さんは明鏡さん以外のローディーとは全く接触もしないし、当然会話もしなかった。どんなつまらない指示であっても全て一旦マネージャーの佐藤さんかローディーチーフの明鏡さんを通し、僕らは彼らの指示として動くのが常だったのだ。

【天皇】



僕がこの仕事に就いてまだ半月目ぐらいだったか、あるレコーディングの時甲斐さんがマネージャーの佐藤さんに、
「ゴー(佐藤さんのお名前)、外のジュース買ってこさせて」と言いながら皮パンツのポケットの小銭を取り出そうと手を突っ込んだ。ローディーにジュースを買って来させろというのだ。僕はすぐに佐藤さんの横で待機した。しかし甲斐さんが履いていたのはぴちぴちの皮パンツなので、ポケットから手を抜いた時お札も数枚一緒に出て来てしまい、パラパラと床にお札がばらまかれてしまった。目の前にいた僕はもちろん慌ててそのお札を拾い上げ甲斐さんに直接手渡たそうと差し出した。ところが甲斐さんはそのお札には触れもせずプイと他所を向いて歩きだしたのだった。あれ?と思っているとすぐに佐藤さんが僕の手からお札を奪うように取り甲斐さんに渡していたが、この人は徹頭徹尾そんな感じなのかと思った出来事だった。それ以来当然こちらからも極力甲斐さんとの直接の接触が無いよう心掛けた。

あの頃、僕の甲斐よしひろさんに対する印象を一言で言うなら「天皇」である。常に甲斐バンドというプロジェクトチームのトップに君臨し、メンバーさえ反論できない絶対的な実権を持っているという印象。
そのメンバーであるギターの大森さんは僕らから見ても随分甲斐さんから叩かれていたように見えた。そんな風に言わなくてもとか、そんなに強く言わなくてもと思ったものだが、大森さんは子供の様な素直な笑顔でその言葉を受け流したりしていた。
ドラムの松藤さんは優しくて賢い人という印象で、きっとプロデューサーとかプロダクションの社長とかになられても、きっと上手くやれる方だ。しかしそんな松藤さんでも甲斐さんには一目置いている様子だった。
甲斐さんが浮かれればその現場も浮かれ、甲斐さんが不機嫌だとその現場も不機嫌になった。
その空気感はレコーディングでもライブ会場でも、どの現場に行っても付いてまわり、当然チームの最末端にいた僕にも悠々と届いた。現場での激しさやスタジオの張り詰めた雰囲気などは、元を正せばすべて甲斐さんのそういった素振りや言動、思いなどがご本人も知らぬ間に築き上げてしまったのだろう。逆に甲斐さんの一挙手一投足を、チーム全体からピリピリとした刺すような緊張感をもって見張られていたのだろうかと思えば、甲斐さんもまたしんどかったのかも知れない。

そんな真剣勝負を1秒たりとも休むことなく続けていると、なんでもない事がとても楽しそうだったり、腹が立ったり、泣けてきたりするもので、短い期間だったが甲斐バンドのローディをやっている間は、僕自身もなんだか情緒不安定な期間だった様な気がする。毎日いろんな事件があったが全ては覚えていないし、覚えているすべては書けない。印象的に残ったエピソードを5つだけ書いてみる。

【event #01  荷台】



翌日が地方ライブという日のレコーディングは22時ごろには終わる。終わってメンバーが帰った後、いつもの様に機材の搬出作業をする。エレベーターのブザーが鳴るまで機材をパンパンに積んで1階に降ろすと正面口にトラックが待っている。翌日がライブなので機材を積んだら僕らもそのままトラックで夜駆けするのだ。つまりレコーディングスタジオの入口にツアートラックの機材車が待っている。隣接した道路はそんなに広い訳ではなく、10t級のトラックが駐停車すれば車も人も渋滞を起こす。トラックの横面には「Kai-Band」と大書されている。トラックそのものではなく、この文字が毎回問題を起こす。その文字を見てファンや野次馬が集まって来てしまう。何故そう思うのか分からないが、ファンはそのトラックを見ると必ずメンバーがトラックの荷台に乗ってる、もしくはこれから乗ると思うらしい。高速の走行車線をおとなしく走っていても、追い越し車線を並走する車で2車線を塞ぎ渋滞が起こる。サービスエリアに入っても、峠のドライブインに入っても、何故かトラックの周りに人だかりが出来る。
トラックに荷物を積む間は荷台の扉が開けっ放しになるので、暗黙の了解で必ず誰かが見張っている事になっている。しかしその時はどうした事かほんの一瞬そうではなかったらしい。
全ての荷物も積み終わり、荷台の扉を閉めリフトを畳んで、僕を含んだローディー2名運転手1名の3名はそそくさと座席に乗って、いざ地方へ出発!という時、後方でゴンゴン車両を手でたたくような音がした。これもよくある事で、ファンたちは何故か楽器車を叩くのだ。
「また叩いてるよ」ともう一人のローディーが言ったが、運転手は左右のミラーをのぞき込んで「あん?おかしいぞ?」と言った。この日のファンは比較的おとなしかったのかハケも早く、ミラーには誰も映っていないのに後方でゴンゴン音がするというのだ。僕らは顔を見合わせ何かを察すると慌てて後方へ回ってリフトを下ろし荷台を開けた。すると案の定中から「助けて!閉じ込めないでよ!」という声がする。手前の荷物をいくつか降ろすと女の子が2人が積まれたケースの一番高い位置に座っていた。この時はさすがに「何やってんだバカヤロー!」と怒鳴ってしまった。2人はぴらぴらとレースがあちらこちらに施してあるようなドレスの様な服を着ているので、こちらも手を貸すが機材やケースの角やらに引っ掛けたりしてなかなか出てこれない。ようやく出て来た時には僕らもあきれてしまって、2人はべそをかいているので怒るに怒れないで参った事があった。
この後、楽器車や道具車の荷台警備を更に厳重にし、ぴらぴらのドレスにアレルギーが始まったのは言うまでもない。

【event #02  中島】



関東のとある会館でのこと。
その日は3,000人ほどの会場がライブ会場だった。関東なのでトランスポーズ(機材輸送)や仕込みにも時間的な余裕があり、リハも順調に終了し、あとは開場を待つばかりとなって、僕自身も楽な気持ちでいた。
僕は地元のアルバイト20人ほどを連れて、会場内の警備配置を指示していた。会場の図面を見ながら正面入り口、搬入口、裏口などに人を配置した後、僕自身はメンバーの楽屋入り口を警備をしていた。
しばらくすると向こうから全身真っ白なドレスを着て、大きな花束を抱えた女性が歩いて来るのが見える。あぁドレスだ、と思った。しかも今正面からやって来る女性はエレガントなツバ広ろ帽子までかぶって最もヤバいキャラだ。どう見ても尋常ではない。歩き方も遠慮がなくスッ、スッ、と迷いなくこちらに向かってくる。地元の会館であればどこがタレント控室になるかなんて承知済みだろうから、きっとこの時間ならここにメンバーが集まっていると踏んでやって来たのに違いない。そして目の前までやって来た彼女を僕は当然ながら制止した。
「ここから先は立ち入り禁止ですよ」
しかし女性はひるむ様子もない。
「甲斐さんいらっしゃる?」
ほら来たぞと思った。しかし大抵の場合こういう格好のグルーピーはかなり若かったりするのだが、この人は僕よりだいぶん上の人に見えた。いい年をしていつまでこんなことをやってるんだと思いながら、
「はいはい、ここは入れないよ。向こうへ行って!」
とハエでも掃う素振りでそっけなく言ってやった。
「あら、困ったわね。じゃあ、中島が来たと言ってくださらない?」
「あんたもしつこいね、ダメだと言ったらダメなの。ハイ帰って帰って!」
「そう?あなたお名前は?」
「うるせぇんだよ!つまみ出すぞ!」
そこまで言ってやっと彼女は退散した。普段現場で僕が他のスタッフからよく言われてる言葉が役に立った。その真っ白いグルーピーを撃退しひと仕事済ませたあとは静かなものだった。
少しすると背後の扉がドン!と開き中から血相を変えた佐藤マネージャーが出て来た。僕がニコニコして「お疲れさまです」というか言わないかの間に、
「お前何んてことしたんだ!」
「ここでけいび…」
「みゆきさんに失礼なこと言っただろ!楽屋に電話あったぞ!」
一瞬何を言われてるのかピンとこなかったが、次の瞬間頭から血が一気に引いていくのを感じた。佐藤さんは僕の肩先を通り過ぎながら小走りで、
「みゆきさんが来たらしっかりあやまれよ!」と珍しく怒鳴った。
この当時僕は中島みゆきさんのお顔を知らなかった。この方もテレビ出演を拒否されておられたので、インターネットなどのない当時は知るすべが限られていたのだが、当然言い訳にはならない。完全にやっちまった状況でまだ頭の整理がつかないうちに佐藤さんと中島さんがこっちへやって来た。まだ30mぐらい先に居たが、僕はその姿が見えた瞬間に「申し訳ございません!」と大声で叫び、前屈状態の平謝り姿勢で凝固した。しかし中島みゆきさんは通りすがりに、
「いいのよ仕事だもん、当然よ。気にしないで。私も頑張る」
とちょっと訳の分からないことをおっしゃった。中島さんらしいなと思った。
その節は大変失礼いたしました。

【event #03  花火】



今はもうないのだが、その当時ロックウェルスタジオというリゾート型レコーディングスタジオが箱根にあった。成功したミュージシャンしか使えないだろうという様な実に贅沢な造りのスタジオで、宿泊施設やプールなども併設してあり、日本じゃない雰囲気の立派な施設だった。(宿泊施設やプールはロックウェル付近の別施設だったかもしれない)
その年の夏、甲斐バンド一行はライブやレコーディングでいっぱいいっぱいのスケジュールをグッと押し開けて、確か2泊だったと思うが(曖昧)メンバー、スタッフ総出でその施設へと押しかけたのだ。
実はこの時の細かいことを僕はほとんど覚えていない。レコーディングもそこそこしたのかも知れないが、メンバーはほとんど遊んでいた様に見えた。せっかくのリゾート施設だったが、ローディーの最下位はバカンス気分など微塵も味わう暇もなく小間使いで忙しかった。印象的に覚えていることは3つ。

1つはスタジオにあったフルコンの音だ。つまり大ぶりのグランドピアノのことなのだが、そのスタインウェイが恐ろしくいい音だったという記憶。僕の様な立場でピアノブースに入り勝手にそのピアノの音を聴けた理由は、甲斐さんや佐藤さん、明鏡さんなどの主だった人達が一斉に居なくなった時間帯があったからだ。彼らは近所のホテルに行って飲むつもりでだったらしいが閉店時間を過ぎていたらしく、既に酔っていた甲斐さんはどうやらホテルのレストランでひと暴れしたらしい。まあそれは別にいい。
それまでもちろんピアノというものに触れたことがない訳ではないが、自分が思っているピアノの音というものの常識が正に音を立てて崩れ去った瞬間だったのだ。今までのピアノが如何に茫洋としてつかみどころのないくすんでいた音だったかを思い知らされた。音を文字で表現するには無理がある事を百も承知でその音の印象を書くならば、エッジの効いたサクッとした金属的な音と、ウッディーで温もりのある深い味わいが絶妙に混合され、単音であってもボディーに共鳴する倍音があたかも心地の良い和音を奏でているかの様な厚みのある美しい音、というところだろうか。強く弾けば雷鳴で大地が割れるが如くガツンと鳴り、やさしく弾けば天使が囁くように音が漂うのだ。とにかく僕は最高級かつ実践的なピアノの音を初めて体験して、ほんの20分程度だったと思うが、ほとんど弾けもしないピアノの音に酔いしれまくったのだった。あれから40年も経つがその音が未だに脳の聴覚記憶野から離れないままでいる。

ロックウェルもう1つの記憶は、現地に着くなりマネージャーの佐藤さんに買い物を頼まれた事だ。僕は他の2~3人のローディーと共に車で一番近いと思われる集落まで下りて行き、スーパーや酒屋で恐ろしいくらいの量の買い物をした。ほとんどの買い物が終わりあとは玩具屋さんと電気屋さんだけだった。
玩具屋さんには麻雀牌を買いに行くのだ。麻雀牌はすぐに手に入った。玩具店のオヤジは何故か嬉しそうに何種類もの麻雀牌を出してきて説明してくれた。僕は麻雀をやらないので細かい説明は何も覚えてないが、あんなものでも安価なものから高級品まであるんだと知った。もちろん迷わずその店で一番高いものを購入するとオヤジは子供のように喜んだ。さらにその店ではありったけのロケット花火も買い占めたが、オヤジはそれに対しては無反応だったので可笑しかった。ただの麻雀好きだったのかも知れない。もちろんロケット花火も佐藤さんの注文通りだ。おそらくメンバーの希望だろうと思った。
残るは電気屋である。雀卓なんて売ってるはずもないので僕らは最初からコタツ目当てに電気店に入った。しかし当節は真夏真っ盛り。変な奴らだと思われるだろうが仕方ない。電気屋の奥に座っていたポッチャリとしたおばちゃんに、
「あのぉ、コタツってありますか?」と恐る恐る聞いたらそのおばちゃん、
「えっ?コタツ⁈」とやはりいぶかしい。
「実は今この奥のロックウェルという…」と言いかけるとおばちゃんは食い気味に話し出し、
「あー、あそこから。そりゃああの辺なら朝方は寒いかもねぇ」
ロックウェルはこの辺りでは有名らしい。おばちゃんはそう言うと動きは見た目と違ってテキパキと早い。
「ちょっと待っててね、店には出してないから倉庫を見てくるから」
と言いながら奥へと行ってしまう。少しすると大きな箱を抱えてドタバタと狭い通路を通ろうとしてるので手伝ってあげて、店の広いところへ引き出した。
「コレしかなかったわ、これでいい?」
「コタツ板の裏地を見たいんですけど」
とまで言ってようやく事情を察したらしく、あー麻雀ねと言いながら梱包を剥がし始めコタツ板の裏地を確認した。
「コレでいい?」
「はいOKです」
と言って支払いを済ませ店の扉を押し出る間際におばちゃんが、
「二灯式だからあったかいよ!」と声をかけてくれた。あれはおばちゃんのギャグだったのだろう。
もちろん佐藤さんにコタツを渡すときには「雀卓は二灯式だからあったかいそうです」と伝えたが、佐藤さんは無反応だった。メンバーの面倒で佐藤さんも忙しかったのだろう。

ロックウェル3つ目の記憶はおもちゃ屋さんで買い占めた花火が主役だ。昼過ぎにはメンバーはもうご機嫌に酒を飲んでいる。夕方にはプールへ飛び込む音がした。蝉の大合唱の中、何か楽しそうに大声ではしゃいでいる。おそらく僕らは夕食の支度か何かをしていたんだと思う。
しばらくすると佐藤さんがやってきてみんなすぐプールへ来る様にと言った。行ってみるとメンバーはそれぞれプールサイドにビーチベッドを引き出し、酔った目つきで何やらニタニタしている。機嫌は良さそうだ。すると甲斐さんが博多訛りで、
「おいお前、飛び込まんか!」
最初誰に言ってるのか分からなかった。これまで直接話をされたこともなければ目も合わしてもらえないという状況だ、まさか自分に言われてるとは思わなかった。すると再び甲斐さんが、
「はよ飛び込まんか!」
とどうやらこちらを見て言っているようだ。
「松井!お前のことだよ」とチーフの明鏡さんに言われてやっと目が覚めた様な感じだったが、考えている暇はない。僕は服を着たままプールに飛び込んだ。するとプールサイドから奇声が上がり甲斐さんの手元あたりでパッと火花が散った。と同時にピュー!と言う音と共にさっき買ってきたロケット花火がプールの水面に打ち込まれる。
「おい、撃たれるなよ、逃げろ逃げろ!」
するとほかのメンバーも撃ちはじめ3人は立ち上がりプールサイドの3方へ散った。挟み撃ちをするらしい。なるほどロケット花火の獲物役をやらされているらしい。ところが僕はちょっと泳ぎや潜水には自信があったものだから、導火線に火をつけて狙って撃つまでにはもう標的の僕はその場にはいなかったのだ。それがつまらなかったのかどうかは分からないが、とうとうローディー全員が獲物としてプールに落とされた。
ロケット花火はズプリと水面下に潜るものもあれば、波の具合によってははじき返されそのまま対岸のプールサイドにいる他のメンバーや、佐藤さん、ミキシングエンジニアの人の方へと飛んで行った。思った以上にプールは異常な盛り上がりを見せ、全員が心底笑っている所を僕は初めて見たと思った。
結局最後まで僕には全く当たらなかった。蒸し蒸しとしたプールサイドに乱射されるロケット花火の音と、みんながはしゃぐ奇声とセミの声。水面下から見た夕焼けの夏空を背景に、キラキラとした水飛沫と火花をスローモーションで見ていた。
今だったらロケット花火の標的と書くと、まるでリンチかいじめの様に感じるかも知れないが、1981年というまだまだ儒教的な空気が濃厚に漂っていた時代では、やってる方もやられている方もその役目を楽しむ準備は十分に出来ていた様に思う。他の人がどうだったかはさておき、少なくても僕は先程甲斐さんに初めて直接呼ばれた嬉しさもあったせいか、この思い出を悲観的とは真反対の、とても美しい青春の1ページとして記憶している。

【event #04 花園】



やはりライブのエピソードも一つぐらい入れておこう。確か屋外で行われた日本最初の大規模ロックコンサートが「KAI BAND SPECIAL LIVE 1981」花園ラグビー場でのライブだったと記憶している。発表では22,000人の動員があったというから、当時としては破格の動員数だったんじゃないだろうか。
僕らローディーはこの時珍しく新幹線で移動した。ローディーだけではなくPA(音響)チームや他のチームも乗り込み、新幹線の1車両がほぼ貸し切り状態になっていた。車内アナウンスがハウリングを起こした時PAチームの誰かが「武田、2キロ!」と言ったのに対して恐らく武田さんと言う人ががすかさず「4デシ下げ!」と言ったのを皮切りに、照明チームは「佐々木!ゼラ!」「#20番持って行きまーす!」とか、大道具さんが「平台宜しく」「6x6でいいっすか」と言えば、明鏡さんも負けずに「今日は440で」と言えば「ホーンに伝えまーす!」などとそれぞれの専門用語が飛んで妙に可笑しく、車内が和やかになった。電車移動もいいなと思った。
現場会場へはライブ前日に到着したように思う。既にそびえるようなステージや照明櫓などが建てられており、ラグビー場はラグビー場ではなく、巨大なライブ会場となっていた。その日の午前中まで雨が降っていたらしく、芝の客席はしっとりと濡れていて、その一部はスタッフの足跡でドロドロになってる。もし本番で降ったら客席もステージも酷い事になるだろうと案じた。
その日は何をしたかよく覚えていない。その夜大勢の関東スタッフは近所の宿に分宿し、宴会場に布団を並べて雑魚寝した。当然おとなしくすぐに寝る連中ではない。既に飲みに出てる者もあれば、宿で酒宴を開く一団もいる。いたるところでカードや花札の花が咲いた。ポーカーに誘われたがカモにされるのがオチなのでその度に断ったが、酒もまわり夜も深くなり始めるころにやはり暴れるヤツが現れる。
「テメェ先輩のいう事が聞けねぇってのか?えー?」となってしまったので一回だけポーカーを付き合ったら勝ちまくってしまった。それはそれでややこしい。
「このヤローイカサマしてんだろ?」などと更にめんどくさくなったので最後に大負けしてやってその場を逃げた。外に出て一服してるとまんまるの綺麗な青い月が出ていた。明日は晴れそうだと少し安心した。

本番当日になった。着替えて顔を洗ったら食堂で朝食を食べる。前夜までただの酔っぱらいだったオヤジ達の目がキリっと引き締まって全員男前になっている。既に臨戦態勢だ。現場に行くと昨晩の内に楽器車とPA車が到着していた。いつもの様にトラックから先ず大道具や照明の一部を下ろしケースから出してセッティングする。楽屋道具も普通の引越程度程の荷物量だ。楽器は最後に降ろすが、ギターは控室に使用者ごとに分けて並べておく。ギターアンプやドラムセット、キーボード類などを決められた形にセッティングしていく。並行してPAさんや照明さんも決められるものをどんどん決めていく。屋外のせいだろうか、いつもより怒声が聞こえてこない。何かに取りつかれた様にみんな淡々と仕事をこなしているように見えた。
大道具や照明、PAがだいたい決まった辺りでやっと楽器のセッティングが出来る。僕はドラムセットを担当していたので松藤さん好みの配置を再現しセッティングする。すると手際よくPAさんがそれぞれの太鼓やシンバルに向けてマイクをセットしていった。だいたいのセッティングが終了してドラム椅子に座ってみた。ドラムはステージの中央、少し高い位置にセットされている。あらためてそこから眺めた花園ラグビー場特設会場は絶景だった。芝生の客席には白いビニールの座布団が信じられない量で整然と並べられていた。僕はその光景をうっとりして眺めていたが、ドラム用モニタースピーカーの声で現実に引き戻される。
「ローディーの人、そこにスティックある?」
ボーカルマイクはまだセットされてなかったので、僕は頭上に両腕で大きな丸を作った。
「仮で作っておきたいから、ちょっとスネアからもらえる?」
これは音響チェックと言って、PAさんがセットしたマイクが各太鼓へ正しくセットされているかをチェックし、音質や音量を予め落とし込んでおくという作業だ。僕は言われるままに先ずスネアをゆっくり単調に連打した。
「はい、じゃあ何発かリムショットも」
言われるままにする。音が次第に出来上がっていくのが分かる。
「はい、では1タム」
いつもの閉鎖的な会場ではなく明るい屋外のステージだ。音量が半端ないのを感じる。
「ベードラ、宜しく」
近くに民家も見えるが大丈夫だろうかという心配もよぎったが、当時最高の機材と最高の技術で作った音に酔う方が優った。
「OK、全体で宜しく」
全体というのはつまりそこにあるドラム全部を使って普通にビートを叩けという意味だ。僕は普通の8ビートを叩いて泣きそうになった。すごい音圧が前方の広いグラウンドに鳴り響いているのが分かった。この町全体を揺るがすような大音量だ。客席で作業していたプロモーターの人達がその音に手を休めこちらを見ている。音は何処かの何かにこだまして2重3重に聞こえてくる。気持ち良すぎる音圧だったが、このディレイが少々気になった。近くにいたPAさんにモニターにうっすら自分の音を返してもらうよう伝えるとディレイは気にならなくなった。
「はいありがとうございます、リハまでこのままにしときますね」
僕はスティックを置くと立ち上がって再び両腕で頭上に大きな丸を作ったが、本当はもう少しこのまま叩いていたかった。

ローディーの仕事場は主にライブ会場だと思われている。しかしライブの本番中というのは決められた動き以外にたいしてやることがない。またそうでなくてはいけないものだ。なので僕らローディーは本番が始まると同時にもう頭の中はハケる事を考えている。それが普通だ。ところがこの日だけは何かが違ったのだ。
夕方になり灼熱だった太陽も少し陰りが見えてきた頃、ついに花園ラグビー場の特設ライブ会場は開場になった。あっという間に22,000人が緑のスタジアムを覆いつくした。しかし新米の僕でさえ何かいつもと違う熱気を会場から感じていた。上手(カミテ)の袖に待機していると、先ず舞台監督の諌山さんが小走りにやって来て、
「気を引き締めろ、何が起こっても冷静に対処しろ」そう言って僕の肩をドンと叩いてまたどこかに行ってしまった。その直後に今度は明鏡さんがやって来て僕の肩に手を置いて、
「いいか、今日はいつもと違うぞ、気を抜くな」とだけ言って彼もまた同じ様にどこかに行ってしまった。いくつもの大舞台を作り上げて来たプロ中のプロの彼らが言う事だから間違いないと思った。と同時にいつもと違うそんな彼らの張り詰めた緊迫感が伝わって来て僕は緊張した。
そして開演定刻になる。BGMが鳴りやんだ。そろそろ始まるという時になって、客席からビニールの座布団がひとつくるくると飛んできてドラム前の照明の上に乗った。このまま照明に火が入れば陰になるどころか、本当に火事になりかねないので、僕はこれを取りにステージに出た。その時だった、なんと22,000人が僕と甲斐さんを間違ったらしく一瞬大歓声を上げた。不意だったので地鳴りと津波を同時に食らったような衝撃で驚いてしまった。なるほど、これを浴びたらやめられないだろう。この大歓声を自分の為に上げられたらたまらないだろうなと思うと同時に、その生々しい人間の声は空恐ろしくも感じた。しかしこれまで何度となく本番中にステージを横切ったりしたが、演者と間違えられたことなんかなかったのに、やはり今日はちょっといつもと違う気がした。観客が血走っているように感じる。袖に戻ると明鏡さんに「いいぞ、その調子で気を配れ」と言われた。更に緊張が走った。

無人のステージに一曲目のイントロが始まった。メンバーが一人ずつステージに上がって行く。その度に客席から歓声が上がる。最後に甲斐さんが手を上げ客席にアピールしながらステージに上がった。すると驚く事が起こった。一層大きな歓声と共に客席から一斉に例のビニールの座布団が投げ込まれたのだ。異様な光景だった。無数に飛び交う座布団は全くおさまる様子がない。ステージ袖に居た僕らスタッフは全員戦慄を覚えた。中には紙テープやトイレットペーパーを投げ込むやつもいる。飛んでるものが多すぎてそれがなんなのかが判別できなかった。演者たちはスポットを正面から浴びているのできっと何も見えてない。いくつかの座布団は甲斐さんや他のメンバーに当たっている。このままでは危険だと思ったがどうしようもできない。ステージは既に始まってしまっている。とにかく投げ込まれたものがステージや演出の邪魔にならないか、事故を誘発しないかをひとつずつチェックするしかない。飛んでくる全部を排除する訳にはいかなかったのだ。僕らは照明やマイクにかぶったり重なったりした座布団だけを排除するので十分忙しかった。
甲斐さんやメンバーとサポートメンバーはそれでも演奏をやめなかった。ふと客席を見た。いつもと違って固定式の椅子がある会場ではない。だだっ広く平たい会場を興奮した観客がじわじわとステージへと移動し始めていた。普段ならステージ上の明るい照明などで前列以外暗くて客席は見えないのだが、この日は夕方の屋外だったので上から見ると遠くまで伸びる群衆の動きは、ゆっくり恐ろしく迫り来る溶岩の様に見えた。客席の先頭にはプロモーターの警備数人があらかじめ設置しておいた鉄パイプの柵を必死で押し戻そうとしている。最前列に居た観客は前にも後ろにも動きが取れずもがいていた。前に行けなくなった客が側面へ流れ出す。それでも1曲目は最後まで演奏した。しかし2曲目の「翼ある者」のイントロで大歓声と共に遂に観客がステージへドッと詰めかけて来てしまった。最前線で辛うじて押さえていたパイプの柵はつなぎ目の所でぐにゃりと曲がり外れて、その辺りに居た観客はステージ下の広い空間に開放されようやく息がつける様子でいる。その時ついにステージ上の甲斐さんが演奏を止めた。客席最前列の方から痛い痛い!という声が聞こえる。甲斐さんは観客に向かってお前ら下がれと言った。怪我人や死人が出れば中止になる、俺たちに演奏をさせろ、歌わせろと言っていた。言っていたというより、怒っていた。座布団の件も含めておオマエらいい加減にしろという感じだったのだろう。しかし僕にはそのセリフがまるで用意されていたかの様なロックスターらしいMCに聴こえた。観客のイメージを崩さない素晴らしいものだったかもしれない。観客は甲斐さんのその語気に気圧され言われるまま、再びゆっくりと後方へ移動していった。その頃はずいぶん暗くなっており、もし今度また観客が前へ押し寄せでもしたら、今度こそ怪我人や下手すれば死人が出てもおかしくない状況だった。あの時の甲斐さん、佐藤さん、諫山さん達がライブ続行に踏み切ったのは大変な勇気だったと思う。その後は座布団が飛んでくることもなくなり、とても感じが良くノリのいい観客になったのは、やはり甲斐さんのMCの力だったのだろう。

ライブはなんとか無事終わり観客が全部会場を出た後、僕らはバラシ作業に入った。バラシ作業は毎回戦争の様になるのが通例だったが、この夜のバラシ作業は全チーム何処か安堵に満ちた様子だった。何事もなくてよかった。投光器があちこちを照らし昼間の様に明るい。あんなにきれいだった客席の芝が全部剥げてドロドロになっていた。プロモーターが集めたアルバイト達を仕切って楽器類は早々にトラックに積み終えた。バイトの女の子が折れたスティックを持って来て「捨ててあったんですが記念にもらってもいいですか」というのでダメだと言って、代わりにピックを渡してやった。ライブのゴミを会場の外で捨てられると厄介なのだ。その会場の外にはまだ興奮冷めやらない観客の一団がこちらに向かって何か叫んでいる。彼らにとっても僕らにとっても、忘れられないライブになったと思う。その夜、花園ラグビー場にかかった月もまん丸でとても綺麗だった。

【event #05  Running on empty】



僕は関東甲信越とその近郊の名古屋、仙台ぐらいまでのライブ現場なら、いつも楽器車や大道具車などのトラックに同乗して移動した。トラックには運転手のほかに2人乗れる。いつも最低でも3台のトラックが出たので、他のローディー達のほとんどもトラック移動だったと思うが、明鏡さんだけは電車移動が許されていた様だった。しかし明鏡さんはトラックの座席に空きがある時はそれを断り、いつも僕らと同じようにトラックの助手席に乗った。その理由は分からないが、下っ端の僕からするととても印象はよかった。もっとも毎回電車移動が許されていたわけじゃなかったのかも知れないが。
ある暑い日、4連泊ぐらいのツアーに向けて僕らは東名高速を西に向けて走っていた。相変わらずその日の明け方まで働いていたので僕は移動中に寝てやろうと画策していたが、その日同じトラックに同乗して来たのが明鏡さんだった。明鏡さんは日頃トラックの移動中は運転手さんに申し訳ないから絶対横で寝るなと言っていた。となればもう眠ることなど許されない。車内にはいつも運転手さんがお気に入りの演歌や歌謡曲のカセットが流れている。これがまた眠気を誘う。それを察したかどうかは分からないが、普段無口な明鏡さんがこの日はやたら何やかやと僕の事を聞いてきた。そもそも音楽は好きなのか、から始まって、お前は何処に向かおうとしてるのか?といった事だったと思う。僕は当時まだドラムプレイヤーになるつもりでいたが、それもきっとままならない事にも漠然と気付いていて、さて今後どうするかと明確に答えが出ないままでいた頃だった。しかし音楽の道でやっていきたいという気持ちは強かったので、その事は伝えたんだと思う。明鏡さんもシンガーソングライターを目指している人なので話はそこそこ盛り上がった。明鏡さん曰く、ともあれこの仕事をしておけば業界の名だたる実力者たちに出会えるチャンスが豊富にある。そのチャンスを逃さずに捉える事だという話をしてくれた。目から鱗が落ちるとはこの事だった。それを聞いて考えの甘い僕はそれまで仕事の辛さばかりに目を奪われ、そういった事に全く気付けていなかった自分を恥じた。

トラックは都内を抜け箱根を越えると渋滞もなく、淀みなく真西に向かっていく。斜陽するオレンジ色の太陽が右へ左へ移動しながらもギラギラと車内を容赦なく照り付けて来る。クーラーはフル回転しているが全く効いていないように感じた。明鏡さんが運転手さんにカセットテープを変えてもいいか聞くと小粋な運転手さんは「おう、自分家だと思って好きにしちゃってくれよ」と転がるような江戸弁で快諾した。明鏡さんは青いカバンから青いインデックスのカセットテープを取り出し、カーオーディオに入れて再生ボタンを押す。ボリュームを少しだけ上げる。インデックスの文字は小さくて読めなかったが、待っていると僕にも聴き慣れた曲がかかった。
Jackson Browneの「Running on empty」という曲だ。この曲と同名のアルバムが丸々入っているカセットテープだった。
西陽の灼熱の中、その軽快なイントロの乾いたサウンドが、高速を疾走する楽器車の運転席を満たす。自然と気分は高揚して理由もなく世界のど真ん中をつんざいて走っているような気分になった。正面には先ほどより更に斜陽して大きくなった太陽が、僕らの進むべき方向を先回りして手招きしているように感じた。追い越していくセダンやステーションワゴンがそのオレンジ色の光の中へと次々に吸い込まれ、ハレーションを起こしては消えていった。僕らもこのまま光の中心へと飛び込んで舞い上がるような、そんな気持のいい錯覚に陥っていた。そのフロントガラスに広がる光景と、音楽と、楽器車で移動しているシチュエーションとが、睡眠不足の脳の中で混ざり合って、僕はなんとも言い表しようのない感動に浸ってしまっていた。そんな時に明鏡さんが語りだした。彼もまたこの状況に少しばかり心を動かされていたのかも知れない。

内容はざっとこんな感じだったと思う。
お前も分かってはいるとは思うが、甲斐さんは毎日、俺達には想像もできないプレッシャーと闘い続けている。芯は真面目な人だから、売れなきゃいけないという義務感に押しつぶされそうな日々を送っているんだと思う。それを思えば俺達の出来る事は本当にちっぽけなんだよ。健康で体力さえあれば誰にだってできる仕事さ。ちょっと眠れないぐらいなんてことはない。お前は知らないだろうが、甲斐さんも毎晩眠れずにいるらしい。夜ベッドに入って静まり返ると、曲を書いて売らなきゃいけないという強迫観念が追いかけて来るんだそうだ。それはとてもしんどい事だと思うよ。でもどんなにしんどくてもいつも甲斐さんはライブを大切にするだろう?なんでか分かるか?甲斐さんは客席からエネルギーを吸い取ってるんだ。どんなに疲れていてもあの観声を聞くと疲れがフッ飛んで、またステージで歌いたいと思うんだそうだ。それって俺達にも少しだけ分かる話じゃないか?一睡もせずに現場で仕込んで、毎回体力と気力を使い果たしてボロボロの身体なのに、あの会場いっぱいの歓声を聞いた途端力が湧いてきて、この仕事をしていて良かったと思うだろ?何千人何万人の人間が同時に笑顔になるんだよ。あり得ない仕事だよな。そんなあり得ない現場を毎日の様に俺たちは経験しているんだ。つまり俺達も甲斐さんと同じで、バンドの観客やファンの人達からエネルギーをもらってたんだよ。そう思わないか?今日会場に来てくれる人たちのためだから頑張れてたんだよ。明日もそうだよ。ずっとそうなんだよ。それに他のメンバーの松藤さんや大森さんは根が優しいから声をかけてくれるけど、甲斐さんも俺たちローディーやスタッフには感謝してるって佐藤さんからよく聞くんだよ。甲斐さんはあんな人だから自分からそんなそぶりも見せないけど、酔うと時々そんなことを言うらしい。あいつらは本当にたいしたもんだって。

この話の観客の話辺りだったか、それとも最後の方だったか、僕はもう既にポロポロ涙をこぼしながら明鏡さんの話を聞いていた。何故泣きたくなるんだ、ここで泣いたらみっともないぞ、そう思っていながらも鼻をすすり涙をぬぐった。それはきっと寝不足で自制の効かない精神のせいもあっただろう。しかしあれから40年経った今でも大勢の観客が歓声を上げるライブ会場に行くと、無条件に泣けてしまうという特異体質なのだから、きっとあの時のエネルギーがまだ体の中にあって、あの頃あんなに頑張ったじゃないか!まだまだ行ける!と力をくれているんじゃないかと思ったりもする。あの18歳の自分を思い出しては、いい歳をして未だにそんな甘ちゃんな事を思ったり出来るのは、当時もがき苦しむ甲斐よしひろさんとそのバンドを必死に盛り上げようとした時代遅れで最高のチームを目の当たりに出来たからだと感じている。
「ばっきゃろー、泣かせんじゃねぇ!前が見えにくくて仕方ねぇや」
と片手で目や鼻をこすりこすり、何故か運転手さんも泣いていた。

トラックは真っ直ぐ西へ西へと向かって行く。このアルバム最後の曲の「The Load Out」から「Stay」がかかる頃には、太陽はもう僕らの真正面で真っ赤になって大地に触れそうになっていた。

甲斐さんもこんな気持ちだったんだろうか。

【The Load Out / Stay - Jackson Browne (訳詞)】



客席は全部空っぽになったね
あとはローディーにまかせよう
ステージを片付けて解体する
ここへ一番最初にやってきて
一番最後にここを出る人たち
そして最低賃金で働いてくれている
彼らはまた別の町でステージをセットしてくれるんだ

今夜の観客は素晴らしかったね
並んで待ってくれて
立ち上がってショーを盛り上げてくれた
それは素敵だったよ

でも僕には聞こえる
ドアを閉める音や椅子をたたむ音が
そしてそれは観客が知ることはない音なんだ

今からケースを転がして、アンプを乗せて運ぶ
トラスを引っ張り下ろして、傾斜台に乗せる
だって僕のステージを移動させるとなると
君たちは最高の仕事をしてくれるからね

だけど、あの最後のギターの梱包が終わっても
僕はまだピアノを弾いていたいんだ
だから出発の準備が出来たかちょっと確かめてくれないか
僕のピアノを運びだす前に

でもメンバーはみんなバスに乗って
出発を待っているね
一晩かけてのドライブのあとはシカゴでショーがある
それともデトロイトだっけ
わからない
たくさんのショーを連日やってるからね
訪れる町がみな同じに見える

ホテルの部屋でただ時間を過ごし
バックステージをうろついていると
ライトが上がってあの観衆のざわめきを聞く
そして僕らがなぜここへ来たかを思い出すんだ

さてバスにはカントリー&ウエスタンもあるし
リズム&ブルース
そして8トラックのディスコサウンドのカセットがステレオで聴ける
田舎の風景を眺めたり雑誌を読んだり
CB無線からはトラックドライバーの声
リチャード・プライヤのビデオもあるよ

何マイルもバスを転がしている間に
愛する人たちのことを思う時間もある
だけど唯一短く感じられる時間は
演奏している時なんだ

みんなきいて
みんなが僕らのショーを動かす力をもっているんだ
そこに座って待っていてもいいよ
それとも僕たちを引き寄せてくれてもいい

おいでよ一緒に歌おう
間違うなんてことあるわけないさ
だって朝日が照りつけるころには
みんなはそれぞれの街で目覚めるけれど
僕たちはここから1000マイル離れたところでショーがあるんだ

みんなもう少しだけいてくれるかい
あと少しだけ演奏したいんだ
プロモーターは気にしないさ
ユニオンも大目に見てくれるさ
ちょっとだけ時間をもらって色んなこと全部忘れて
あと一曲歌ったとしても平気さ



※40年も以前の事で記憶違いについてはご容赦ください。