生活の足音

社会人になって私は変わるだろうなと薄々察していたが、思惑通りに学生の多感な時代とは違う感覚が巡っている。

端的に言うと、適当な人間になった。
人間関係にうまくいかなくてもどうでも良くなった。
雑念は通り道のコンビニに捨てて、家に帰れば好きな本をまどろみながら読んで満足できる。
たまに捨てきれなかったゴミがスーツのポケットに溜まるから週末に掃除して、安寧を維持している。

バランスが崩れてしまえばあっという間に洗い流されてしまうような生活の上に乗って生きられている。

心の隅っこにはいつでもちりぢりになった不安が積み上げられているのだが、それがあったままでもいい余裕さえあるのだ。

雑念だらけだったあの頃。
「不安」は部屋の真ん中にインテリアとして飾られていて、私は異質なそれをずっと眺めていた。
吐き気に襲われながら、そこに生きることの根幹があり生きてゆくという継続性は重要なことではなかった。

生活は足音を立てて近づいてくる。
隣を見れば、生活もこちらを見つめている。

生活感の薄い時間はかつて青春だったものであり、今は些細な凸凹である。道をなだらかにしながら目的もなく歩いていく、それが苦痛と感じない大人の春がやってきた。

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